2006年夏学期 思想芸術一般のレポート
主人公のオーレンカは、かわいい女の典型として描かれる。「かわいい」という特性が所与のものとされているのだ。そのかわいさは、「ふっくらとしたバラ色の頬」や「黒子が一つある白いやわらかな首筋」、そして「穏やかな優しい瞳」といった具体的な描写によって表現されている。こういった具体的な描写は時代の変化によってその意味が変化するものであるが、当時のロシアでも、そして現在の日本においても普遍的にかわいいとされる描写であろう。そして、この描写によってオーレンカは容姿にめぐまれているということがわかる。それでは「かわいい」というのは単に見た目についてだけのことなのだろうか。女性に対する賛美としては、「かわいい」のほかにも「美しい」や「きれい」といった形容詞が使われる。しかし、「かわいい」という言葉には、「美しい」や「きれい」といった言葉にはないニュアンスが含まれているのではないか。オーレンカは「かわいい女」であって、「きれいな女」でも「美しい女」でもないのである。
オーレンカが「かわいい女」であるのは単に外見でのことだけではない。性格も「おとなしくて気立てがいい」し、なにより、自分の意見を持てず、夫の意見を自分の意見であるかのように言うことしかできない。本文にも「夫の考えることはすなわちオーレンカの考えることだった」とあるように、「かわいい」女の典型的な性格が、自分の意見がなく、おとなしい、というように設定されているのだ。自分の意見がないということが、「かわいい」のである。自分の意見がなく、夫の価値観や思考をコピーすることによってしか価値観や思考をもてず、夫が死んでしまうと「何事についても意見をまとめることができず、何を話したらいいのか分からない」。夫が遊園地の経営者、兼、演出家で、演芸を生業としているときには妻のオーレンカは演劇のすばらしさを説くのだが、その夫が死んだ後、材木商と再婚すると「あんな芝居なんて、どこがいいんでしょう」と正反対のことを主張する。
これらは、その時々に深い愛情を抱いた夫に対する依存をあらわしている。オーレンカは「いつでもだれかしらを愛さずには生きていかれない女」であり、その愛の対象となった夫を愛するあまり、夫と同じ価値観や思考となり、夫と一体化しようとするのだ。これは一人称にもあらわれていて、「ワーネチカと私」、「ワーセチカと私」といったように、「私」ではなく、「夫と私」という主語で意見を述べることで、自分と夫が一体化した存在であることを強調している。この一体化が強ければ強いほど、夫を失ったときの喪失も大きく、自分の意見を失ってしまう。冒頭、最初の夫であるクーキンと結婚する以前は中庭へ降りる段々に座って物思いにふけることもできた。しかし、3人の男を愛し、その後死別するなり離別するなりして全くの1人ぼっちになると、中庭に降りる段々に座っていても、なんの思いも浮かぶことはなくなる。遊園地の経営者であるクーキンを愛していたころは「遊園地で奏でられる音楽」や「花火」の音を聞くと、「クーキンが自分の運命と戦っている」ことを想起したのだが、一人になってしまうと「(遊園地の音楽や花火の音は)もはやなんの思いをも呼び起こさない」ようになる。心の中も、頭の中も、「がらんとしてなにもない」として描写される中庭のように空虚になってしまうのだ。
このように、オーレンカは「かわいい女」としての外見と性格いう、からっぽの構造しか持たず、夫から価値観や考え方といった思想を与えられなければ一人前の大人として意見を述べることもできない女性としてかかれている。これは、一般的にはいわゆる「バカな女」とされる性格である。しかし、だからこそオーレンカは「かわいい」のではないだろうか。確固とした自分の意見を持ち、誰かに依存することもない女性には普通「かわいい」という形容詞は使われない。ここに「かわいい」という形容詞のもつ、その対象への優越がみてとれる。なにかに対して「かわいい」と言うとき、その対象に話者は意識してにせよ無意識にせよ、自分の方が上の立場にいるという優越感を感じているのだ。社会学者の上野千鶴子は、「かわいい」とは「女が生存戦略のために、ずっと採用してきた」言葉であると述べ、女はかわいくあるべきだ、という認識はイデオロギーであって女性を旧来の依存的存在に押しとどめておくための方便であるとして批判している。(1)すなわち、「かわいく」あらんとする女性は、男性に媚をうることでその保護を受けようとする依存傾向にあるというのだ。これは、オーレンカに対する形容詞として「美しい」でも、「きれい」でもなく、「かわいい」が選ばれた理由のひとつであろう。「かわいい女」の原題は「ドゥーシェチカ」であるが、これはロシア語の「ドゥシャー」という魂・心を意味する言葉からきた愛称である。だが、これをそのまま日本語に翻訳することはできない。そこで、原題のもつ呼びかけのニュアンスを保ちつつ、ドゥーシェチカと愛称になることで帯びた皮肉の要素も残した訳として、「かわいい女」とかいて、「かわいいひと」と読ませるタイトルがつけられたのだ。そして、「かわいい」が選ばれたことには、上野が指摘したように女性を旧来の依存的存在に押しとどめようとするイデオロギーが作用しているのだろう。
だが、「かわいい女」は、女性が旧来の依存的存在に押しとどめられていることの象徴である、として片付けられるほど単純ではない。オーレンカは単なる依存的なだけの存在ではないのだ。オーレンカは退官した病身の父の遺産のおかげで経済的には自立しているが、精神的には確かに夫に対する強い依存傾向にある。だが、オーレンカ自身にとっては、先に述べたように、夫を愛するあまり夫と自分が一体化することを望み、夫の意見と自分の意見の区別がつかなくなっているに過ぎない。例えば獣医を愛していたころ、獣医の属する連隊の同僚が獣医のところに客として来ると、オーレンカは獣医が常日頃から話している、牛疫だの家畜の結核だのについての意見を述べて獣医たちを閉口させてしまう。そして客が帰った後、獣医に「分りもしない話をするんじゃないって、あんなに頼んだじゃないか!」としかられる。それに対してオーレンカは、以下のように反応する。
オーレンカは驚きと不安のまなざしで男を見つめ、尋ね返す。
「ヴォロージェシカ、じゃ私、なんの話をすればいいの」
そして目に涙を浮かべて男を抱きしめ、怒らないでと哀願し、二人は仕合せだった。
オーレンカは自分が夫の発言のコピーをしているにすぎないことに気づいていない。と、いうよりも夫と自分の差異を認識しておらず、夫と自分の意見が同じであることを当然のこととしている。だから夫にしかられると、驚き、不安になるのだ。そして、しかられてもオーレンカは夫の意見以外のことを言うことはできない。自分の意見がないので、「なんの話をすればいいの」とうろたえるだけだ。それにもかかわらず、オーレンカは夫と抱きしめあい、物理的に一体化することで「二人は仕合せ」になる。自分の意見を失い夫の意見のコピーになってしまうのは、オーレンカにとっては決して不仕合せなことではないのだ。オーレンカは夫に依存しなければならないのではない。夫を愛するあまり自分と夫との区別がつかなくなっているだけなのだ。それは世間から見れば依存しているように見えるかもしれない。しかし、オーレンカはただ純粋に夫を愛し、夫とともにありたいと願っているだけなのだ。一体化してしまえば、それはもはや依存ではない。だから、オーレンカは夫とともにあればそれだけで仕合せを感じ、夫が少しでも自分のそばをはなれると、「ひどく淋しがり、夜も眠らずに泣いてばかり」になる。これは一体化が強いことのあらわれだろう。
「かわいい女」が一人の相手をとことん愛し、相手との一体化を望む生き方をする女性であるとするならば、オーレンカが、先に述べたように「構造しか持たない」というのは、オーレンカが外見だけでなく内面的にも普遍的に「かわいい女」であるために必要な要素である。オーレンカは「かわいい女」としての外見という構造を持ち、しかし確固とした内面という価値観を持たず、構造しかない。つまり、内部、すなわち内面は取り替え可能であり、確固としているのは構造しかないということだ。事実、先にも引用したが、遊園地の経営者が夫だったときと材木商が夫であったときでは意見が正反対になっていたように、夫がかわる度にオーレンカの内面は変化している。構造しかないから、その時々に応じて求められている内面にすることができるのだ。これは柄谷行人が指摘したように村上春樹や吉本ばななの作品にも通じるところがある。村上春樹も吉本ばななも、その作品から文学的な要素を除き純粋にファンタジーとしてみた場合、物語の説話構造はシンプルである。だが、そのシンプルさがあったからこそ表面的にどんなテーマを抱えようともそのテーマを普遍化することが可能となり、世界中に翻訳され、受容されたのだ。つまり、世界中で受け入れられる普遍化のためには、分かりやすい単純な構造が必要だといえる。同様に、オーレンカも単純な「かわいい」という分かりやすい外見的な特性しか持っていない。だからこそ、そのからっぽの内面にどんなテーマであっても抱えることができて、どんな相手であっても愛し始めたらその相手と一体化することができるのである。
オーレンカは、年を重ねることで「かわいい女」としての外見的特性を失い、もはや道行く人がみとれたり、微笑みかけたりしなくなる。そうなったとき、彼女が欲求する「自分の全存在を、心と理性のすべてを掴み、自分に思想を、生活の方向を与え、衰えゆく血潮をあたためてくれるような一つの愛」の対象となったのはかつて愛していたが離別してしまった獣医の息子、サーシャであった。オーレンカはこの子を我が子のように愛し、次のようにつぶやく。
なんてかわいい、きれいな子だろう……私の坊やは、こんなにお悧巧に、こんなに色白に生まれついたのねえ
サーシャはオーレンカの実の子ではない。それにもかかわらず「私の坊や」と呼び、母性愛を感じるのは、サーシャを愛し、一体化することを望んでいるからである。実の子であるならば、かつて本当に一体化していたのだからこれほど強く愛する対象は他にはない。だから、サーシャに対してこれまでにない深い愛情を抱くのである。さらに、オーレンカはここでサーシャに対し、「かわいい」という形容詞を使っている。「かわいい女」がそのかわいさを失った後、一体化するほど愛する対象として選んだサーシャに対して抱いた感情が、「かわいい」なのである。だがサーシャは中学へ入る年頃であり、サーシャの愛に対して「ああ、ほっといてよ、お願いだから!」「小母さん、家へ帰ってよ、ぼく、もう一人で行けるから」といったように反抗する。サーシャはオーレンカにとっては「かわいい」のだが、自分の意見を持ち、オーレンカと一体化することを拒絶する。オーレンカの愛は一方的であり、いままでのオーレンカと3人の男の間にはなかった意見の対立が、オーレンカとサーシャの間にはあるのだ。そして、サーシャは物語の最後に「こいつ!あっち行け!やる気か!」という、自立を暗示したセリフを述べる。これはオーレンカの一体化を望む愛がうけいれられないであろうことを示している。しかし、一方的な愛であってもオーレンカは仕合せなのだ。見返りがなくても、オーレンカはサーシャを愛することで満足する。「そのわけが一体だれに分かるだろうか」とあるように、その理由は誰にも分かりはしない。ただ、オーレンカはサーシャを愛し、それで仕合せを感じる。愛がなければ生きてはいけないオーレンカが最後に見つけた愛は、母性愛だったのだ。
注
(1)上野千鶴子『老いる準備』学陽書房、2005
なお、本文の引用は、原則として新潮文庫の小笠原豊樹訳によった。