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『Marnie』とはどんな映画であろうか?ヒッチコックのメジャーな作品の中で、『Marnie』は常に一種の問題児のようなもので、ヒッチコックのほかの作品よりも、監督のファンたちをより鋭く複数のグループに分けた。『Marnie』は1964年に公開され、、広く正統なヒッチコック作品と認められていた一連の作品(『Vertigo』(1958)『North by Northwest』(1959)『Psycho』(1960)『The Birds』(1963))の最後に現れた。『Marnie』はこのグループに属するのだろうか?これは最後の偉大なヒッチコック映画なのだろうか、それともヒッチコックの衰微を表す最初の映画なのか?この映画はヒッチコックの仕事の歴史の中にどのように位置づけられるだろうか?

A ヒッチコックの映画を「ビクトリア朝的考え方の遺産」に結び付けようとして、Paula Marantz Cohenは、『Marnie』が1960年代にヒッチコックの映画におこった重要な変化の例として、どのくらいの地位にあるかについて手短に議論した。『Marnie』では、ヒッチコックはもはや、登場人物の心理的概念を、彼のほかの多くのハリウッド作品ほどは中心に据えていない。そのかわり、彼は観客に表面に現れる世界と、人工的に露骨な世界を提示し、その世界の中では、物体は心理と関連しているのではなく、「新しい効果を生み出すために操作されうる、性と死に関する語彙」と関連している。Marantz Cohenは、『Marnie』における表層の映画のこの探求を、小説風で心理的な「死」の概念がゆるやかな変化を経た1950年代におけるいくつかのヒッチコック映画の外における発達、と解釈した。例えば、『Vertigo』の中で、Madeleineは「潜在的なアイデンティティの伝達媒体」というほどの登場人物ではない。『Vertigo』は我々に「表面的な主観性」を示し、そのなかで、我々は「個々人の心の謎に導くような世界ではなく、世界の混沌へと開こうとする個々人の心」を見てとることができる。Marantz Cohenによれば、『Marnie』は表面上の主観性に向かうこの傾向をさらに高いレベルまで至らせているとする。この映画は、ヒッチコックの初期のアメリカでの作品における、女性の心理とセクシャリティの扱いにおいてとても中心であった、主人公の表層や深層の論理を探求しない。Marnieは、彼女の表面の下には何もなく、「刺激される願望もなく、つまり、表面の冷たさが真実を語っている」。この見方において、『Marnie』は、「個々の登場人物の、現実のはかない感覚以上のものを引き起こすことに失敗した」1960年代のヒッチコック映画に属する。

B  なぜ、『Marnie』やヒッチコックの他の1960年代の映画の登場人物においては、表面的な主観性や非心理的な概念の占めるところが増加したのだろうか?そして、このことの重要性というのはなんであろうか?Marantz Cohenは、この時期のヒッチコック自身の内面的発達の期間や性質の、ある文化的な推移に触れることにひどくはっきりとそれてはいない。その映画の表層についての彼女の議論が、ある興味深い可能性を示した一方、それらの可能性のついてはどこか不十分な部分がある。私は、次の二つの理由からMarantz Cohenの仕事をここに引用する。第一の理由は、これはこの難解な映画の性質を決定するためのここ30年以上にわたる数多くの試みのごく最近の例であることであり、そして第二に、この映画における表層の強調は、いかに問題のあるように論ぜられようとも、それでもやはり、この映画の効果の中心であるからである。したがって、私は彼女の議論によって開かれたままになっている空間を利用したいと思うし、この映画が近づいていったであろう枠組みの、より全体的な枠組みを打ち立てたい。これらの空間は第一に歴史的であり、つまり、1960年代初頭の物語形式の映画のより大きな発達に対する『Marnie』のやっかいな関係と、これらの発達を認めようとしたヒッチコックの挑戦の結果である。

 『マーニー』が最後のヒッチコック映画の傑作だとすれば、その(傑作という)地位は多大な苦闘の過程がなければ決して達成され得ない。いや、もっと正確に言えば、その映画の魅力は苦闘の過程そのものを観察、発掘することから生じる。1960年代を通して作られたヒッチコック映画において、様々な構造の発展が明らかである中でヒッチコック映画はまた、ヒッチコックにとっての新たな段階の表現性と意味に到達しようとしているように思われる。特にこの新たな段階というのは、1960年代初期のヨーロッパの芸術映画における、ある種の技術革新に自分の映画を融合させるというヒッチコックの欲求に関係し、直接的には(『マーニー』を製作した)一年前の『鳥』という作品のなかでそれらの実験が行われていた。そして実は『マーニー』はアントニオーニの『赤い砂漠』といくつか暗示的な類似点を持っていて、完成したのは同じ年なのである。(けれども、ヒッチコックが『マーニー』を作る前にアントニオーニの映画を見ることができたとは考えにくい)しかし、ヒッチコックのスリラーの形式と構造におけるヨーロッパの芸術映画の様々な面の統合は、映画のある部分で解決できないある不安を生み出す。

5段落  『鳥』がフランスで公開されたとき、Jean-Andre Fieschiは、その映画の中の緊張はミステリーを解決するためのものではなく、ミステリーを精巧に作り、さらに発展させる目的で使われるヒッチコックの最初の映画で、『鳥』とAlain Resnaisの近年の作品との間に結びつきがある、と記した。しかし、『マーニー』ではヒッチコックは伝統的なサイコロジカルスリラーの手法にのっとった、「ミステリーを解決すること」に回帰した。これはそのまま『マーニー』がより伝統的な映画であることを意味するのだろうか。これに対して単純な回答はできない。実際、数年を通して『マーニー』に対して様々な意見が向けられた。キャラクターの研究、中世的なメロドラマ、芸術映画、アヴァンギャルドの傑作、フェミニストの作品、女嫌いの作品、古風な女性の映画等・・・。映画の理想と最終的な到達点の間の、永久に解決できない対立による緊張からの影響で(このような多種多様な意見が)生まれたのだろう。『マーニー』という作品を公平に見れば、(『マーニー』を見た)人々はその映画の、バラバラで統一されていない性質について言及するに違いない。これらの様々な、時に両立不能な理想を追求することが人々をこのわかりにくいヒッチコックの映画の自然さをはっきり認識することを妨げている、『マーニー』について書くことはまたそのような苦闘の一形態であるにちがいない。

6段落  Donald Spoto著のヒッチコックの伝記からの余波で生まれた、ヒッチコックの映画の周りについてくる神話について、できる限り早く認識することが多分最も良い方法だろう。話によるとヒッチコックは(『Vertigo』 のScottie Fergusonのように)一人の女性の変身に取り憑かれるようになった。(その女性は主演女優のTippi Hedrenで、彼女はただスターであるだけでなくヒッチコックのロマンチックな幻想の中の理想像であった。)しかし、彼女を現実の世界でも所有したいという夢も、彼女をスターに変身させるという夢も、彼らの個人的な理由での不和と映画の重大な、そして財政的な失敗の後に崩壊した。この財政的失敗と重大な解雇は、おそらくモダニストの映画戦略の上にあるものではなく、女性の古風な性質(それは映画で見られるのと同じように古風な「女性の役割」と、明らかに目立たない仕事と裏方の上に築かれた信頼を伴う、伝統のメロドラマ的なシナリオ)を受け入れることからが原因のものである。この全てが『マーニー』にハリウッド映画の少し陳腐な雰囲気を与えてしまった。『マーニー』の上映会でもレセプションでも、ヒッチコックは私的かつ公的な屈辱を味わっているように見え、彼の映画芸術家としての清廉さと社会性は疑問視された。

一方で私はヒッチコックの個人的な女優への妄執が映画の形式ばったやりすぎにまきちらされている、と考えるような単純な読み方は避けたい。この神話はある程度の興味と有用性を含んでいる。それが指し示しているということはヒッチコックのクリエイターとしてのコントロールは「Marnie」においてオフだった、ということであり、それに対して無自覚であり、ヒッチコックのより伝統的な形と順応させようとしていた新しい形の両方の間でもがいていたということであった。これは結果として映画の反逆において現代的、あるいは古典的と容易に評価されうるだろう。しかしながらそれは本質的にヒッチコックの映画でめったにないわけではない。Gilles Deleuzeはヒッチコックについて以下のように書いている。「あなたは平等に彼は古典映画の最後の監督、あるいは現代映画の最初の監督だといったかもしれない」。「Marnie」について重要なのは現代的なものと古典的なものが同時に存在しているという激しさである。それはあたかもその極みの中でこの映画はヒッチコックが映画の歴史的な発達において果たした移動的であり鍵となる高められた例として存在している。

 Marantz Cohenは彼女の「Marnie」についての表面性といかに新しい影響につながったか、ということについての議論を歴史的に文脈付けることはしなかったが、彼女のこの方法による「Marnie」の位置づけはこの映画を現代映画、特にAntonioniのそれらにおける同時的な発達と結び付けている。Sam RohdieがAntonioniの映画について以下のように書いていた。「これらの映画は主題(ただ妥協して処理するためだけの)を提示し、対象(ただ解決するためだけの)を構成し、ストーリー(ただ失うためだけの)を提示する。しかし同時に彼らは彼らの妥協、損失をもう一つの実体へと変える、話術から解決された表面へと歩き回り、しかし表面が魅了を獲得するような方法でそれら全ては主題となる」  

これは「Marnir」においても怒っているのか?表面はそれ自体の主題となるのか?ヒッチコックの仕事に先行して頻繁に現れ、日地に情的な肉体、顔、対象への関係性における映画において表面への力強い返答が存在する。時々この返答はパワフルなこれらの主題に触れたいという、より近くより近くあろうという、そしてあたかも映画に詰め込まれ、表現の古典的なシステムを壊してしまおうという本質を貫くかのような欲望をカメラの一部に作り出している。しかしこの表面の激しさにおける莫大な分析はまたこの映画の一部に未だに強く古典的で記述的な映画に由来する方法が、特にキャラクターの心理的な概念について見られるのかということを理解し説明したいという欲望を生み出す。  

このフィルムのプロダクションで財―名であるRobert Boyleは「Marnie」に直面したときのヒッチコックの難解さを説明している。「ヒッチコックは貴方たちが見ることの出来なかったものを明らかにしようとした。彼は完全に明らかになっていない物事の話を伝えようとした。彼は絶望的に本当にこの女性の心理を掘り起こそうとしたんだ。」この文脈の中で「Marnie」を単純に表面の映画である、即ち心理学的な映画とは対極であると議論するということは明らかに適当でない。Spotoがメモしたように、この映画はヒッチコックにとって心理学的な関係性を持っている。「むき出しの感じは彼の映画において以前は決して許されなかった」。同時にこの知識は、この「むき出しの感じ」はまたこの映画の深い傷であり、このシステムの完全なる含みから引き戻す理由となった。それは表面と心理学の間の揺れ動きでアリ、感度と、このフィルムを支配し、この映画を総括して簡単に説明しようという試みを複雑にしている知識の間での動きである

最初に、Hitchcockの古典的映画、近代的映画双方との関連を考えよう。もしDeleuzeがHitchcockを歴史的に正しく位置づけているとしたら、Hitchcockは古典的映画の偉大な監督の最後であり、近代的映画の最初の偉大な監督である、これはどうしてだろうか。Deleuzeの古典的映画と近代的映画の区別はよく知られている。第二次大戦以前の時代に支配的だった「movement-image」の考え方の古典的映画は、空間と動きに統一性を獲得しようという努力が特徴である。この種の映画では時間は動きより下位であり、動きに支配される。第二次大戦以降支配的となった「time-image」の考え方の近代的映画は、古典的映画を深刻にした「感覚のエンジンの概要」が特徴である。戦後の映画は動きが時間、夢、記憶との関連によって定義されるので、もはや古典的とはいえない。その映画の主人公はもはや古典的映画の主人公のように思考、行動、動きに統一性を持たせることを楽しまない。そのかわり、彼らは演じるよりむしろ見ている。彼らは自らにはコントロールできない視界の餌食となっており、結果的に彼らはしばしば自らの人生の見物人となる。1940年代、イタリアにネオ・リアリズムが登場した―Antonioniは有名な人物である―が、それはこの新しいtime-imageを確立するのに中心的な役割を果たした。  

Deleuzeは、古典のmovement-imageと近代のtime-imageの間のHitchcockの特別な位置づけはHitchcockの「mental-image」の考え方の発展の結果であると論じている。mental-imageでは、全ての行動や知覚は、古典的映画に見られるような不規則な出来事の関連の中に単純に存在する独立体よりむしろ、「何か」との関連によって決定される、と主張する。Charles Peirceは冷静な関連の言い伝えを定義する中心として「第三者」の考えを作り出し、Deleuzeは、第三者を通した関係を映画に導入したのはHitchcockである、と論じた。Hitchcockの映画には「永遠に続く3倍化」の構図がある。出来事には決定的な3人目の仲間がおり、登場人物間の関係は三角の点から考えられる。彼はChabrol/Rohmerを例に挙げ、Hitchcock映画での犯罪がどうして常に共犯者がおり、誰かのために犯罪をするのか、ということの重要性を強調している。PsycoでのMarnieとNorman Batesは自分自身のために犯罪(それぞれ、窃盗と殺人)をしなかった。―2人とも、彼女たちの母親のためである。その結果、その犯罪は三角形の構図を持つことになる。Marnie/Strutt/Mrs Edgerの三角形と、Norman/Marion/Mrs Batesの三角形である。この3倍化は同じようにの対象、知覚、愛情、そして「最初から最後まで全ては暗示である」という映画の世界を創造するのに落とし込まれる。さらに、Hitchcockの登場人物(多少、time-imageの主人公を予期させる)はしばしば彼ら自身の見物人であり、映画を見る人と共に表現する関係上の鎖に捕らえられる。  

Deleuzeは、Hitchcockの映画を定義するのは目つきではないと主張したが、Hitchcockが関連というものを固定する「タペストリー」の中で、目つきがどのような役割を果たすかも主張している。これらの関連は心の関連であり、Hitchcockの第一の関心事は思考の形跡を記録することであり、mental-imageは、映画の形式の歴史でその点まで考えを尽くすことは、映画の限界のもっとも複雑な現実を表している。「それは目つきの問題ではない。」Deleuzeはmental-imageについてこう述べた。「そしてもしカメラが目だとしたら、それは心の目である。」例えば、MarnieがRutland&Co.に初めて雇われたとき、彼女は他の秘書が手提げかばんから鍵を取り出すときに、簡単な会話を交わしただけであった。その鍵は彼女の机の中のたんすを開けるものであり、たんすの中にはMarnieがほしがっている安全な混合物が入っている。2つのカメラのセットがここではmental-imageが現れる感覚を通して使われる。つまり、私たちが秘書の手がかばんに届き、鍵を引っ張り出してたんすを開けるのを見るようなMarnieの視点のショットと、Marnieの頭のわずか上から見下ろすショットである。

14●こうした二つのカメラ配置のシーンを切り返す(注:サスペンス効果を高めるため、同時並行の複数の場面を用いる映画技法)ことによって、マーニーの思考プロセスと、マーニーの行動を観察している目撃者(注:映画を見る限りMr. Rutland)の思考プロセスの両方を辿る事ができる。私たちは切り返し技法によって、マーニーの視点からマーニーの見ているものをただ単純に観ているのではない。この技法によって彼女の思考を観察することができ、彼女が準備している仕事は、引き出しの中にある金庫の暗号を読み取るために金庫の鍵を手に入れることだということも分かる。同時に、観客としての私達の認識も直接的に要求されている。マーニーを頭上から見下ろすショットは、それに対する製作者の強い感情が含まれている。それは、それを映画のワンショットだと、カメラの配置だと私達に気づかせるためにそこに意図的に設置されたものである。これは単なる美辞麗句ではなく、観客に対する告知である。これは女性の思考なのである。さらに、秘書の手が鍵に伸びるのを見せるカメラ配置では、鍵をもった彼女の手の動きが観客には若干不自然に見える。詳しく言うと、最初にポーチから鍵が出てくるところで彼女が静止するところ、そしてそれから彼女が引き出しを開けるときのことである。どちらの仕草も、リアリストたちに言わせると不自然な間延びをしているらしい。しかしこの間もまた、観客にイメージを読み取りやすく、マーニーの心情の推移を理解しやすくするのに役立っているのである。秘書によるこれらの引き伸ばされた仕草は、私達観客のためにあるのであって、マーニーのためではない。これらは私達に向けて描かれたものであって、マーニーに向けてではない。Godardが述べたとおり、観客が単純に映画を観るのではなく、映画もまた観客を見返しているような映画をヒッチコックは作るのである。

15●一連の関係性の中で観客を巻き込み、内包すると同時に、登場人物が比喩的に観客になるという働きは、繰り返しそれ自身の働きを確かめているようなイメージを生む。それは単に古典的な物語映画だけに言えるのではなく、古典的な物語映画のプロセスに近い映画にも当てはまる。この点で、ヒッチコックは戦後のモダン映画のもつtime-imageに多大な関心が寄せられることを予期している。The French new waveは(そのすべてはヒッチコックの作品に委ねられているが)、同様に精神的イメージの暗示と関係していた。しかしそうした暗示は古典的なmovement-imageを完全に打破するためにそれにゆだねられ、アクションやキャラクターに結びついた精神的イメージを提示している。「ヒッチコックが避けたかったこと、つまり伝統的なaction-imageの危機というのは、それでもやはり彼が通ってきた道で起こり、それは部分的には彼が起こした革新の結果とも言える。」

16●しかしながら、ここではまた別のことも起きている。不自然なほど長く握られ、それを完全にストーリー上の役目と精神的イメージのせいにしている秘書の手の動きに、私は注目した。しかしながら私は、静止があることによって、こうした手の動きや、オープニングのレザーポーチや秘書の手に握られた小さな鍵のもつフェティシズム的なインパクトに一種の文学的価値を感じる。これらのショットは少々決定的過ぎるように見えるが、物語の中での自身の役割を少し越えた触覚に訴える魅了の仕方を使っている。私達は、この世界で単純なアクションを観察するよりむしろ、こうしたアクションがDeleuzeの言う「純粋に精神的な存在をもっている象徴的な行動」に変わってしまう世界の中にいるように思える。仮にそうだとしたら、ヒッチッコックの映画はマーニーに見られるこのシーンのような瞬間ですべて満たされていることになる。テクニックや形式のtour de forceとしてのこの瞬間の連続は、ヒッチコック映画において鍵となる他のショット、例えばNotorious(1946)において、アレックス=セバスチャンの家の階段の上からワインセラーの鍵を握って閉じているアリシアの手に寄っていく、クレーンによる精確なカメラワークなどと比較して、かなり少ないように思われる。しかし、マーニーにおけるこの瞬間のインパクトは、単にこの連続による演出から生まれたものではなく、それがこの映画全体のもつ構造的意味にマッチしているということから生じている。そしてその構造的意味とは、これまでと違ったタイプのヒッチコック映画を前面に押し出そうというもがきの中心にある意味のことである(注:つまり違ったタイプの映画を作ろうとしてマーニーを作り、それを象徴しているのがさっき挙げた鍵のシーンだということ。)。

 映像の接写は、近接感によるインパクトによって、演劇を修正する。苦痛は手を伸ばした範囲に存在する。もし私が腕を伸ばしあなたに触れたとしたら、それは親しいということである。私は苦痛による涙にぬれたまつ毛の数を数えることができるし、きっと涙を味わうことができるだろう。こんな顔になったことは今までに一度も無い。それが私に対して近づけば近づくほど、私は面と向かってそれに服従する。(????) 私たちの間の空間に空気が存在しているということは、真実ではない。それは私にとって神聖なもののようである。最高のことは見ることによる痛みである。

Deleuzeは、伝統的な動画の崩壊から外に現れた、触覚のある映画(?)について言及する。この映画では手が、物を捕らえたり、動力を起こしたりする機能を放棄している。映画を純粋な接触で満たすためである。Deleuzeにとってこの映画の最も良い例は、ロバート・ブレッソンのものである。(彼は最後までヒッチコックについては述べなかった) ロバートの作中では、手はしばしば感情の表現という点で顔と取って代わっているし、手自体が1つの知覚の形態となっている。この触覚の映画において、手に新たな知覚の力が見出されたことによって、視覚の機能(要するに目)は2倍となる。手それ自体が今、目の一種となっているのだ。「Marnie」は「Pickpocket」ではない。Bressonの映画とは異なり、手と目、見ることと触ることの関係が体系的・組織的に統合されていないのだ。しかしそれにもかかわらずこの触覚は映画の中に存在しており、物語的かつ心理的な葛藤の中に埋め込まれている。ある種の古典的・文学的な慣習を壊し、手が感じることと見ることを同時に行う‘pure touching’という領域に入るという願いを、「Marnie」は明示している。

「Marnie」の、新婚旅行用のクルーズの船の甲板の、一続きのモンタージュの場面のまっただ中で、Mark RutlandはMarnieに、アフリカにある、肉眼で見ると花のように見える物について話した。その花は実際のところ、自然の脅威から身を守るための一形態として、花のような形により集まった小さな昆虫達の集合体である。そのことに気づくことができて初めて、この物体に手が届き、触ることができる。にもかかわらず、この些細な独白(ほとんど映画の中ではカットされる)は、「Marnie」の大部分を構成している触ることと見ることとの関係を理解するための手がかりである。触られることを望んでいない人間に触れたいと思うことは、ヒッチコック映画の中では常に存在している、見ることと感じることの体系的パターンをレベルアップしている。しかしここでは、このパターンは方法において他のものにとって代わられている。それは、物語的主題的な映画内容にまとめられている。カメラや登場人物、観客の視点の関連性はここにおいて重要ではない。なぜなら、この映画は触れるということを紹介したものであり、ここでいう「触れる」ということは、物体や他の人間や動物に対する、一連の願望や感覚のプロセスの最高点としての手の存在だからである。(そしてMarnieの彼女の馬、フォリオに対する心理的な返事は、映画中のどの人よりもかなり親しく、性的である。)

主要なものは、映画の中でほぼ10分しか使わない一続きの場面である。Marineと彼女の母Edgarが、母の台所で会話をしたが、この会話はEdgerの近所の人々の先々の出来事に集中している。近所の人々とは、引っ越してきたコットンさんとその娘のジェッシー(彼女はMarnieの母親に対する愛情のライバルだが)のことである。一続きの場面は些細かもしれないが、影響力がある。映画の全ての内容についての重要性や受容性を話し合う前に、細部の状況や前後関係の説明も必要である。

その連続(日本語的にはシーンのことやと思う)が始まると、それはいくぶんありふれた中くらいの二つの女性達のショットがから始まり、そして正面からの中くらいの、テーブルに座りクルミを割っているMarnieのアップが続き、それと交互に二つの中くらいの、シロップを注ぐために立っている彼女の母のアップ(一つは彼女の正面から、もう一つは彼女の側から)が映される。Mrs. EdgarはMarnieのJessieに対する嫉妬に気づき、そのことを咎め始める。この感情的な不和は、カメラの位置が彼女の正面から彼女の側に移り、彼女が母を見て「何で私を愛してくれないの、ママ?私にはどうしてかわかんない。なぜママはJessieに注いでいる愛の一部を私に注いでくれないの?」」と尋ねる彼女に近づくときに、編集の形状が突如壊れるのにつながる。我々はそこで再び母の側からの母のショットに戻るが、今度彼女はショットの中でやや傷ついているように見える。構成の中心に座る娘とは反対に、画面の構成の右端に立っている母は、その質問に答えることができない。母は卓上の塩の振り出し器に近づくが、そこで、母の手に触れるMarnieの手のアップのカットが映され、marnieは「ママ」と言う。母はその手を振りほどき、そこで母の恐ろしい顔が映される。カットは再びMarnieが以下のように言うときに中くらいの二つのショットに戻る。「なんでいつも私を遠ざけるの?私の何が悪いの?」。「何も」と母は言う。「あんたは何も悪くないわ。」「いや、ママはいっつもそう思っているんでしょ?いっつも」そこでカットは、Marnieが母から愛してもらえるようにやってきた今まですべての事をつぶさに挙げながら、自分を愛してくれないとまくしたてつつ母を見るMarnieのアップに戻る。しかし今回はMarnieのアップは、ほとんど判らない位の彼女へのゆっくりしたトラッキングショット(徐々にアップするショット)である。その一方で、母が周期的にMarnieの爆発を遮るショットがずっとほぼ同じ、でも少し中央から外れた位置から撮られている。Marnieの母への批難はどんどん強まるが、そこで母の手がmarnieのアップに移り込む。ビンタである。そしてMarnieの手がクルミを入れたボウルにあたりクルミが床に散らばるカットがそれに続けられる。  

このシーンの感情的な質を書き表すのは難しい。構成の厳格さや見る事の強調は、明らかにヒッチコック的である。しかしヒッチコックの仕事(workが訳しづらい)にしては珍しい、ある特種な感情的な高まりがこの作品にはある(この映画の最後の母の家での連続でも、にたような質が見られる)。母に愛が不十分なのをまくしたてるMarnieのアップは、直接カメラに向かって話しているようになるのをやや避けるようになっている。それにも関わらず、(Spotoの言葉を借りると、)その仕事にはむきだしの感情が感じられる。あまりにもむきだしであるために、母と同様に、人が我々が見たものからしりごもうとする衝動に駆られるほどである。そのショットの中でMarnieは構成の中央に置かれ、攻撃的であるが、座っており、傷ついているようにも見える。母は立っているがショットの右端すれすれに移っており、動くのは難しいようだ。二人の女性の手が触れるところのアップはこの特別な緊張を破るが、これはまた別の、より尖った緊張を作り出す。この映画を通して繰り返される、接触の難しさを主題として打ち出すのである。それは間接的なやり方でしか表現されない接触である。母は娘の手に、愛情の表現としての接触ができないのに、その同じ手を用いてMarnieの顔をビンタすることはできる。Marnienoの手が同時に、Jessieにパイを作るために用意された、クルミの入ったボウルを打つのと同じように。

しかし、このシーケンス*は、『マーニー』が現代的な「触覚」の映画であると結論するような読みを支持するものだろうか。本稿においてはここまで「触る」ことに注目してきたし、母に向かって差し出されるマーニーの手の大写し*にはブレソン的な権力*がほぼ確かに認められる。けれども、そうした読みに正当性を与えるようなものではおそらくないだろう。このシーケンスは、滑稽なほど芝居がかっている。つまり、どこか念入りに作られそして演じられているような雰囲気が漂っており、それはメロドラマの世界に直結する雰囲気である。そういったメロドラマ的なものは、ヒッチコック映画の形成において大変重要な役割を担っている。彼は、「純映画的なるもの」*の追求の結果、メロドラマというジャンルにおいて、ある種の規範、イコン、構造、人物類型を見出し、これらを通して、映画の形式にまつわる可能性を探求することへの関心を表現することに成功した。また、スパイものや探偵もののスリラーや女性を中心に描かれるゴシック風のメロドラマ、ホラーものには、目撃し盗み見ることの楽しみや、複雑で次々と変わる視点からのショットや焦点合わせの面白みがあるが、ヒッチコックは、こうした楽しみ・面白みを、自らの、「精神的関係」*の映画をつくる執念のうちに見事に統合してしまっている。しかし、それでもなお、『マーニー』の上述のシーケンスにおけるメロドラマ的な雰囲気は、ヒッチコックには滅多に見られないものなのである。

 ピーター=ブルックスは、メロドラマについて、「そこに漂う雰囲気や考えなどを、ほとんど人工的な実在の物として、みんなに見て触ってもらう何らかの見本のように扱う」ものであると述べている。ここで、ヒッチコックのゴシック風メロドラマ『レベッカ』*(1940)からの有名なシーンを思い出していただきたい。ダンヴァース夫人は、ヒロインをレベッカのクローゼットへと連れて行き、レベッカの下着の皺の下に手をいれたり、毛皮の外套の袖に顔を押し当てたりするように勧める。とすれば、『マーニー』における、触覚との関係は、ヨーロッパ的芸術映画への反応の結果であると同時に、メロドラマのある種の伝統から後に発展し派生したものであるともいえる。しかし、『マーニー』においてヒッチコックは、『レベッカ』でなされているように、この接触への欲望がただ単にカメラに収められ表現されるのではなく、撮影器具全てがこの欲望をもっているかのごとく動くように情熱を注いでいる。『マーニー』をこうして捉えるならば、この作品におけるメロドラマは、「メロドラマ」という形式における「触覚」の論理を用い、その論理を通じて創作されながら、「メロドラマ」というジャンルのそれまでのやり方がほとんど的外れに思えるほどの高みにまでこの論理を押し上げているといえる。レイモンド=ダーグナット*が述べたように、『マーニー』においてはしばしば「メロドラマ的なるものは、単に象徴であり、印のようなものであり、隠れ蓑にすぎない」のだ。

 さて、『マーニー』で一番極端で暴力的な「接触」の瞬間は、マーク*がアフリカの昆虫について説明したそのすぐ後にほとんど間を置かずにやってくる。強姦のシーンだ。この強姦シーンは、ヒッチコックのこの映画に対する姿勢において極めて重要であり、そこになくてはならないものであった。マーニーの最初の台本作家エヴァン=ハンターは、そのアイディアに気乗りがせず、さらにマークが観客の共感を完全に失ってしまうことになると恐れて、このシーケンスを書くことに強く反対した。結果、ハンターは退けられ、代わりにジェイ=プレソン=アレンがその役目に就いた。ところが、このシーケンスの面白いところは、マークは観客の共感を失ったようには思えないことだ。たとえば、ロビン=ウッドは、このレイプを「映画が我々に与えてくれた中で、有数の純粋さを誇る性的交歓の描写」として誉めちぎっている。これには様々な理由が考えられそうだ。たとえば、ショーン=コネリーのスター性が、恋愛や性的関係において魅力のあるカリスマという人物像に完全に結びついているために、逆にマーニーの方が、彼とのセックスを断ることで観客の共感を失うことになりかねない――つまり、「ふつう」の異性愛女性で、一体どこの誰がジェームズ=ボンドと寝たがらないだろう、というようなもの――。あるいは、レイプの後ですぐに、マークが、ロマンティックな男性主人公としての、そしてマーニーの心理セラピストとしての、そしてストーリーの中心的なミステリーを解き明かす探偵としての位置に舞い戻ってくるように設定されていることもあるだろう。さらに、下心見え見えの男性が女性を辱めることは、その女性が男性の妻であり、しかも、その映画の論法において、そうした彼女の意思に反して行われる暴力的な行為に「値する」ような場合、メロドラマにおいて先例を求めることは難しいことではない。『風と共に去りぬ』(1939)や“The Foxes of Harrow”(1947)は、男性主人公が、性的関係に頑強に抵抗するヒロインや妻を犯さなくてはならないと感じた、ハリウッド映画の例である。しかし、私が考えるに、こうしたことよりももっと中核的な理由は、最初の問いに立ち戻るが*、この強姦シーンが『マーニー』という映画の「接触」の構造の中でどのような働きをしているか、そして、このシーケンス自体が形式的側面においてどのように構成されているかということに関わる部分から答えられるであろう。

<註>
*シーケンス the sequenceは、「一連の文脈」という原義から、「ひとつづきのシーン」を意味する映画用語としても用いられる。
*大写し a close-upは、対象に接近したショットを表す映画用語である。
*ブレソン的な権力 Bressonian powerは、本章92ページでドゥルーズが、「触覚」の映画の例の筆頭としてロバート=ブレソン(フランスの映画監督)の映画を挙げている。“power”は、ドゥルーズやミシェル=フーコーの“pavoir”の英語における定訳である。
*「純映画的なるもの」 “pure cinema”は、映画において、ストーリーや人物や俳優ではなく、映画特有の監督の指揮の下に動くカメラワークや映像の編集などに重きをおき、映画を、文学や演劇から差異化された独自の芸術として捉える考え方を指す。
*『レベッカ』 “Rebecca”は、ヒッチコック監督の映画。女性主人公「わたし」が妻を亡くした富豪のもとに嫁ぐが、家政婦ダンヴァース夫人とうまく折り合えず、しだいにダンヴァース夫人と、死んだ先妻レベッカとの影に怯えて暮らすようになる。
*精神的関係 mental relationsは、本章90ページの“the mental image”を踏まえたもの。
*レイモンド=ダーグナット Raymond Durgnatは、イギリスの映画評論家である。
*マーク Markは、『マーニー』において、ヒロインのマーニーと結婚する男性主人公である。マーニーの盗癖と、男性・稲妻・赤い色に対する恐怖(したがって、強姦されるまで、マーニーはマークにも体を許すことを拒んでいた)の原因を共に探る。このすぐ後ろの、「アフリカの昆虫」とは、本章92ページにおいて紹介されているとおり、マーニーとマークの新婚旅行のとき、遠くから「見」たら花のように見えたものが、近づいて「触って」みたら虫の集まりであったということを指している(多分)。この一見ストーリーの展開にあまり関係のなさそうな挿話は、本章においては、『マーニー』における「見ること」と「触ること」の関係を如実に示したものとして取り上げられている。
*最初の問いに立ち戻るが those which relates back to…これ以下の部分は、92ページで既に示された問いである。

<要約>
メロドラマ的なものは、ヒッチコック作品の重要な部分を占めてきたが、それにもかかわらず、『マーニー』におけるメロドラマ的な雰囲気は、特殊なものである。
『マーニー』において、ヒッチコックは、単に登場人物の接触への欲望をカメラに収めただけでなく、カメラの視線自体が欲望を伴ったものであるかのように撮影しようと努めた。
『マーニー』において、マークが強姦を行ったにも関わらず観客からの共感を失わずにいられる理由は、強姦シーンの映画全体の中での位置づけと、このシーケンスがどのような形式・技術をもって撮影されているかを探ることで分かる。

レイモンドベルーアによると、ヒッチコックの「マーニー」(そして彼の作品の全て)における著者としての存在は大きく力と結びついている。マークとストラットはヒッチコックの「まさに生き写し」であり「全ての彼の生き写したちの中で最初の存在であり、彼らの世代も認める母体」である。ベルーアが議論するように、カメラを通じて表現されている力への渇望、特にそれはカメオのような見た目でのマーク・ストラットやヒッチコックによるマーニーに対する視線と関係しているのだが、それは確かにそこにある。実際力とマーニーにおける欲望のこの関係を明確に表現したいというヒッチコックの欲望は非常に強い。しかし、魅力的な女性主人公に対するカメラの視線が強く、欲望のたまった男性主人公の視線を通じてあまりとりつがれなかったのは、ヒッチコックの映画くらいだとよく議論したものだ。「マーニー」のオープニングでの、ストラットとマークがヒッチコックの生き写しとして機能している(そしてもしストラットがヒッチコックの生き写しだとしたら、彼はとても喜ばしくない人間だ)というベルーアの主張にもかかわらず、これらの瞬間につくられた圧倒的な印象は私たち、そして容姿の面で2番目の強い男性キャラクターからとても自由なカメラの前に姿を現したマーニーの印象である。ストラットとマークによるマーニーへの視線はヒッチコックのカメラによって頻繁にとって代わられる。これらの男はマーニーを見ているだろう。そしてマークは映画の中で後に彼女のたくさんのピンポイントなショットを与えられる。一方でヒッチコックは自分自身のカメラのために男性キャラクターによって作り出された視線から離れるか、強く入り込みながらマーニーを最も強く強烈に見ようとする姿勢を連続的に保持する。

 私たちがマークやストラットを見る映画の最初の連続においてその二人の男が持つ視線は概して記憶に関する精神の操作である。つまり、ストラックの自分の特徴の呪物的目録やマークのひざのあるブルネットの人に対する縮図などである。彼の短編においてヒッチコックは自分やカメラの他の男性登場人物にわたる視点に特権を与えるよう提案しながら、独力で映画の「diegetic」な世界(すいません・・・いくら調べても意味がわかりません) の範囲内で彼女を最初に見たことを維持しながら、廊下を通るマーニーを実は電車の駅でマーニーを見るというこのオープニングを通してホテルの部屋で彼女が独自性をひも解き交換し、髪の毛から黒の染料をすすいだりした時、我々はマークやストラットを否定した(たとえ彼らの記述が我々のその心構えをさせても)マーニーを見るための場所、そこは黄色の革の財布、すましたスーツ、漆黒の髪、ピンクの爪の磨き粉、彼女のプラスチック製IDカードの入った金のケースといった物質の手触りがマーニーの体のずれた伸張に役立つように明確に意図されていたり、我々の目が比喩的にこれらの物体をさわるように誘われる、大変に私的な場所に連れてこられる。映画の2番目の連続で、ストラットが探偵にマーニーの特徴の目録を列挙したように、彼は自らの手で場所と動作を研究している。それはまるでいくらかの言語や視覚や記憶がマーニーに対する彼の欲望のいっぱいの表現に不十分であるかのようだ。彼女が彼の雇用下にあったとき彼はいくらか儀式的に決してわからない接触の動作を再既定しなければならなかった。この全てのが、視線への接触への、また欲望への物体により近づきたいという欲求を生み出すという力強い環境を立ちあげてくれる。しかし、それ自身の中にあるこの視線もまた、そのカメラによる視線が壊される瞬間と交互に起こるカメラによるマーニーの占有、によって決められている。つまりそれは後退すれば向こうに見える(例えばカメラのパンがレイプシーンの間、マーニーの顔から船窓へと離れて見える)といったもので、まるでそれが遠くへもいけず、近づきもできないとわかるように、それは視線を誰かに付与するのだ。

映画の始まりのショットが「マーニー」におけるカメラのこの立場を要約している。非常に近い、黄色の財布のショット、その財布はマーニーの緑色のツイードのジャケットと対比され、しっかりとかかえられている。カメラが彼女の後ろに動く。その二つの動きが一致し、彼女はスピードを上げる。カメラはプラットホームの彼女が遠くなっていくまで下がっていく。そしてカメラは遠く、近づきがたいところから彼女の長いショットを撮る。Pascal Bonitzerは遠くから近くへの動きをヒッチコックの最も特徴的な動きであるとしている。それは大きな像から小さなものへ、環境から対象への移動である。しかし私たちはしばしばこれとは反対のことを「マーニー」の中で見る。カメラはすぐに近づきたがる。それは女性の内側へ、身体的にも精神的にも入っていくためであり、彼女の、見ることのできない心理状態を伝えるためである。ヒッチコックが自身のために伝統的に用意しておく(Bellourが言うところの)表明者の役割は、この動きとは反対の概念に脅かされる。この役割は、彼が表明者として動きの中に準備している、欲望の連鎖との皮肉でわずかな距離にいつも基づいている。今やヒッチコックのカメラは、(キャラクターとして認識されるにはあまりに不十分だった)マークや(あまりに重く、共感を覚えないので観客が一体感を感じられなかった)ストラットといった彼のキャラクターたちよりも、欲望の連鎖の中に巻き込まれてしまっているようだ。

映画において、注目を得る最も重要なキャラクターはマークではなく、マーニーである。しかし、これは映画にとって問題を作り出す。Stojan Pelkoは「存在と不在の間を延々と揺れているヒッチコックの女性キャラクターの長い連鎖」と呼んでいる。Pelkoはこう書いている。「彼女らのうちのそれぞれ全てが彼女の似姿に関して、一動作で不在と存在を取り替えることのできるとても映画的な特徴のおかげを被っている…。」この女性キャラクターは見物の対象であり、かつその運び手でもある。見物の運び手であるとき、彼女はこの見方を自ら所有さえしていて、視覚に左右される。この見方は(彼女が、普段男性キャラクターが見るより深い深遠を見る点で)鋭いものであり、かつ、(物事の状況が大きくなるにつれ、彼女の関係性を見る力を制限する点で)視野が狭いものだ。それが観衆のために準備された(Deleuzianの第三の認識である)関係性を見るための場所である。一方、「マーニー」ではヒロインの視覚の鋭さが内面化されすぎている。彼女は、彼女の赤い閃光や、繰り返される悪夢を「見る」が、彼女はそれを知らず、分からない。同様に、観衆である私たちも(最後まで)知らず、分からないのだ。彼女は、自身の視覚に引っ張られているのではないが、それらに支配されている。それらは、それらを解読するとき問題になる。なので、彼女の視覚が最も鋭いとき、それによって私たちは、映画を作り上げている関係性の核心に近づくのではなく、かわりにそれが謎、つまり関係性の連鎖を凍結させるものになってしまう。

これらのマーニーの視点にある事物と、(金の盗みとアイデンティティの変化に集中させている)観点のショットを通した彼女の考えの有り触れた複写の間には映画の裂け目がある。これらの観点のショットはマーニーを明らかに悩ませるものと比較すると、強烈さという点では有り触れている。映画の中のマーニーの視点は物語に関連して二つの疑問を浮かび上がらせる。まず初めに、そして一番切迫した問いは次のものだ。マーニーに何があったのか?映画はこの問いに中々答えない。もう一つの問いは、彼女はお金を盗んで捕まったのだろうか?という、もっとダイレクトに映画を活気づかせ、そして物語のサスペンスを作っていくものだ。しかしマーニーの盗みが何かの兆しであることは明らかである。この事を彼女は知らないし、理解していない。だから、物語に生命を吹き込み、(古典物語でのキャラクターの伝統に終止符を与えた)彼女の視点や行動は、それにも関わらず、彼女の謎の視界に濁らされているのだ。言い換えれば、マーニーの活動の中心にあるこれら二つの視点は、映画の至る所に巡らされている置換の感覚を、そしてヒッチコックが映画の中で目につかないものを可視化しようとした感覚を強めるのだ。この見ることが出来ない何かは記録して保持してある感情の働きであり、理解するものでも、何よりもまず理解しようと望むものでもない。つまり辛うじて無自覚の欲望として演じられるものなのだ。精神イメージの実現は、ヒッチコックの映画の楽しみとして大切なものだが、神経の状態として存在している。精神過程を維持する事によって得られる楽しみは、『マーニー』において、妨害され、加工することが出来ない精神状態を記録する、二次的なものだ。結果として、視界そのものはここでしばしばマーニーが赤い色を見る時はいつもスクリーンを満たす赤いフラッシュのような光そのものの一種の表面になる。若しくは彼女がフォリオの死後、安心してラトランドからお金を盗もうとした時の、自然な前後のズーム運動である。そしてそれは、私たちにイメージを近づけて押し退ける事を同時にするような仕掛けである。

しかし映画の至る所に、マーニーの視点であるヒッチコックのカメラのパワフルな要求がある。これは見られるだけでなく、同様に肉体的に触れられるよう、彼女に要求している。これは観客にキャラクターに関係した詳しい知識に鍛えられたセンスを与えたが、それはある量の苦痛や困惑に満ちた詳しい知識で、主人公と関連しているという点では必ず実在しないものだ。私たちは、あるレベルでは不可能だと分かっている欲求のネットワークに組み入れられている。ヒッチコックの映画は、カメラが撮影しているものに充分に近づいて見ることが出来ない事物に満ちている。女の人を撮影しているなら、特に。この近接への固定から死と欲求という対立した限界から二つの例が出せる。本当に一番初めのヒッチコックの映画である『下宿人』のオープニングショットで、女性の顔は殺害されている過程で、ほぼダイレクトにカメラのレンズに置かれている。そして『裏窓』のリサ・フレモントの最初のショットは、まるでカメラとセックスしているかのようにカメラの中でゆっくりと魅惑的な動きをした。

しかしながら『Marnie』では、この種の例の反復や、触れるという感覚の鋭さが主題となる方法を取ることで「近さ」と「接触」を強調することが、この映画の主要な原則となっている。激しい雷雨の中、MarkのオフィスでMarkとMarnieがファーストキスをしている間、カメラはあたかもすべての期待を裏切るかのように、二人にとても近いところでツーショットを撮り、目、鼻、口以外に何も見えなくなるまでさらに画面いっぱいに二人に向かってゆっくりとズームする。このクローズアップ(大写し)は『The Lodger』でのラブシーンや、『Notorious(1946)』での長いキス、『Rear Window』でのL.B.JefferiesとLisaのファーストキスと明らかに一致している。しかし、『Marnie』のこのシークエンス(一続きの場面)における極端な撮影方法では、俳優とカメラと観客の境界がわからなくなるように撮影される。つまり、これらフレームいっぱいを覆う、人の体に触れるような生々しい映像は、顔がカメラをかすめるように見え、見ている人の想像を超えて、観客に映画を見ているという感覚よりも、むしろ映画中の人物に触れているという感覚を引き起こさせるのである。  

キスやレイプのような興奮するシーンを撮ったにもかかわらず、Mark Rutlandを登場人物として十分に説明することができなかったことにヒッチコックは不満を感じている。特に、Marnieに対する強い想いは、犯罪者の女性に魅力を感じるというフェティシズムと関係していた、というMarkの重要な性向を映画では十分に伝えられていないということにヒッチコックは落胆していた。確かに、映画の中で、MarkのMarnieに対する願望、そして二人が高速道路を走っている時の彼の彼女に対する愛の告白は、明確に説明されず、『Vertigo』における、ScottieのMadeleineへの想い(とても明確に表現されている)とはまったく正反対である。しかし、『Marnie』においては、カメラワークが主要な要素であり、実際は男の主人公がもはや脇役のようになってしまっているため、明確に説明されないというのは問題ではないのである。レイプのシーンでMarnieとセックスしているのはMarkだけではない(*)。このシークエンスは、キスやレイプのような印象的な事態からだけでなく、明確な映画の特質(例えばカメラワーク)からも力を得ている。Marnieがベッドに押し倒されているとき、カメラが撮っている視点はMarnieに体を近づけていくMarkの視点だけでなく、Marnieの・・・へ入ろうとするMarkの・・・からの視点も表している(*)。もちろんこれは最終的には不可能なことである。実際に彼女と肉体的接触をする前に丸窓という視覚的隠喩へとパンアウト(カメラを別の方向へ振る)しなければならない。

クリス・マーカーは「Vertigoにおいてホテルの部屋で360度移動撮影したショット(“映画の歴史において最も魔法のようなカメラの動き”)はScottieとJudyとの間での性の結合の瞬間―それは検閲のためにヒッチコックが示すことができなかった―に取って代わるものとして見なされるべきだ」と書いた。Marnieの頃までには、この言い回しのメタファーはヒッチコックにとってだんだん不適切なものとなった。彼はさらに一層、より文字通りの機能に近づかなければならなかったし、カメラも(より文字通りの機能を)想定し始めなければならなかった。この点において、Marnieからのレイプの場面はVertigoの移動撮影のショットとFrenzy(1972)における絞殺とレイプの場面との間のどこかに位置する。Frenzyからのレイプと殺人との連続においては、観衆を誘惑させるためのあらゆる試みは無くなってしまった。見ごたえのあるカメラの動きも無ければ、華麗な照明効果も無く、魅力に満ちた映画スターもいない。私たちは、単調で何も無い宇宙にいるのであり、そこではあらゆる接触が暴力(ここでは、はっきりと絞殺による殺人)であり、セックスは全てレイプであり、人間は動物のような本能と行動にまで低減されるのだ。映画の中で繰り返し強調されている、食料と性と人間との繋がりは、ここ(Frenzy)では被害者の女の昼休みの最中に行われるレイプと殺害と、そして殺人が終わった後に、加害者の男が半分食べた(被害者の女性の)リンゴによって表現されている。Frenzyからのこの(レイプと殺人の)連続は、いくつかの点で、Marnieにおけるレイプの連続に対する否定的でむごい反応だとして解釈されるかもしれない。感情的な可能性の手法を目指す映画を賛同した1964年の映画(=Marnie)のなかで、映画言語のメタファーの漸進的な崩壊として始まったものは、1972年の映画(=Frenzy)―それは圧倒的で虚無的な文字の関心(?)に賛同したものだったが―において、激しく見捨てられた。

Frenzyからの、このレイプ、あるいは殺人をする人(人物の名前など思い出すだろうか?)は、同情という観点で、Mark Rutland(Marnieの主人公)とは程遠い。では、レイプの連続からMarnieへと話を戻すと、なぜMarkはレイプをした後でも観衆の同情を失っていないようであるのか、というもう一つの明白な理由は、ヒッチコックにとってもっとも主要であるthirdnessの疑問(?)に関係がある。Markはレイプをしている間、Marnieとの関係において単なる攻撃者(加害者?)ではなかった。彼の、彼女(Marnie)との関係は、Marnieの、彼女の母親との関係を繰り返していた。MarkがMarnieの役割を想定し、Marnieは自分の母親の(役割)を想定していた。彼は単にMarnieの敵対者や、ロマンティックな相手役ではなく、その映画の主題である接触や欲望について、ある種彼女の生き写しだった。MarkはMarnieに触れたくて、Marnieもまた、彼女の母に触れたかったのだ。

しかし『マーニー』に出てくる接触と欲望の鎖は、マーニーとマークにみられるものだけではない。このような接触と欲望の鎖の、終点を表す登場人物が、他にも2人あらわれるのだ。この2人はマーニーの生まれの家族と、結婚して入った家族の2つの、それぞれの端にあらわれる。

一人目はマークの義理の妹リルであり、彼女はマークとマーニーの婚姻関係にある欲望の鎖に、決定的な第三の要素を作り出した。すなわち、リルはマークを欲望し、彼に接触する。マーニーとのハネムーンに出発しようとしていたときに、積極的に彼の口にキスして誘惑するのだ。しかし、彼を性的に所有することはできなかった。マーニーがマークの実家ラットランド家を始めて訪れたとき、リルはわざわざ手首をひねったフリをして、お茶を淹れることができないように装い、マーニーが代わりにお茶を淹れるように仕向けた。こう偽装することで、リルはより大胆にマーニーを見つめることができるようになった。物語全体を通して、リルはするどく物事を見抜く潜在的な可能性をもっている。この可能性に、マーニーは直感的に気付いていた。二人が初めてラットランド家のオフィスで出会ったときに、リルはマーニーを鋭くみたが、マーニーはそれを避けて目をあわせることを拒んでいる。マーニーはその後もずっと、リルと目をあわせないようにしている。リルのマーニーに対する視線は、性的な欲望、少なくともマーニーに対する欲望とは無関係な、純粋な知識に結び付いており、マーニーの化けの皮を剥がそうとする意図からのものだ。つまり、マークの愛情をめぐるライバルであるマーニーに隠された真実を暴こうとしているのだ。このことが、リルに対してマーニーが直感的に感じとったことである。マーニーがリルの視線を避けたのは、リルの視線はごまかせなかったからだ。リルは会ってすぐ、マーニーの力の源を見抜く。それは彼女の容貌である(マーニーに初めて会った後、リルがマークに尋ねたのは、「dish(=a sexually attractive person)は誰?」だった。)。(訳注:よく意味が分からないけど、最初会った時が会食かなんかで、料理のdishとスラングのdish;a sexually attractive personをかけてるのかな?"who is the dish"にどんな意味が込められてるのかは全然分からん。)しかし、鋭い視線でマーニーの美貌の裏に隠された真実を暴く、というリルの潜在的な役割はそのあとずっと果たされることはない。リルは真実を暴くのではなく、観客がすでに知っている情報、すなわちマーニーのストラットとの関係、ボルティモアに母親がいるという事実を暴くのである。

二人目はエドガー夫人で、エドガー夫人の家における欲望の鎖に三つ目の要素として加わった子供であるジェシーに自由に触れている。だが、ここで最も決定的なのはエドガー夫人の前の職業、すなわち売春婦をやっていたという過去である。マークは物語の終盤で、売春婦とは「男に触れることで生計を立てている女性だ」と言った。この映画の中心となる主題的な謎、すなわち、なぜマーニーに盗癖があるのか、なぜマーニーは男性に体を許さないのか、そしてそのことはかつての母親との生活とどんな関係があるのか、といった事は、「男を触る」ことが中心だった母との生活という、マーニーの育った幼少期の環境に由来している。意義深いことに、大人になってからのマーニーの悪夢に繰り返しあらわれる謎めいたイメージは、肉体から切り離された男性の手が窓枠をノックするというものである。このことは、マーニーが母親以外から接触を受けたことを示している。それは若き日のマーニーが悪夢にうなされたとき手を置いた水夫であり、接触を受けたことが彼女のトラウマとなって、ヒステリーを引き起こし、自分自身の手で火かき棒によって水夫を殺害するにまで至る。この殺害こそが、この映画の主題である心理的な葛藤の出発点となるのだ。(訳注:『マーニー』は、小さい頃殺人しちゃったのを母親に隠してもらったことから、母親に貢いだり、男性恐怖症になったりしちゃうマーニーのトラウマを解決する話らしいです。)

しかし、テーマ的に有効なこの解決は接触のモチーフの観点からであり、触れることが出来る現代映画に属するものとして映画をあまりにも簡単に読むという観点において別の問題もまた生じる。Marnieに対する解決は、抑圧されたトラウマ的な幼少時代記憶の観点において、Marnieの神経症の起源を説明するものである。緩んだ最後を縛る試みや、Marnieへの出来る限りのケアに対する不確かな望みを提供するような試みがある。この解決方法はそれ自身の内的矛盾や二律背反を含んでいるかもしれない。つまり、映画の最後の瞬間は確固とした結末の感覚と言うよりむしろ、曖昧で弱弱しく消えていく効果を持っている。しかし、外観は露呈し、説明は要求されるような、より伝統的なメロドラマ的解決の必要性がまだ存在している。このより伝統的な解決方法は、回帰、つまり芸術映画に影響を与えた一年前の「鳥」の曖昧なエンディングからの移動を特徴づけているように思える。Fassbinderはこのエンディングに以下のようなコメントをしている。『私はヒッチコックMarnieのような映画を取ることはできない。なぜなら私には、そのような映画を作り、最後にそのような説明を与えるような勇気がないからである。私は、勇気の自然な一部のような何かを持っていないが、おそらくいつかそれを手に入れるだろう。そして、私はちょうどハリウッドのようになるのだ』確固とした新しい映画作成実践の中で生産されたFassbinder自身の1970年代のメロドラマは、一貫してヒッチコックが自分自身に貸したようなハッピーエンドのようなエンディングに反抗した。多くのヒッチコックの作品は予想し、ヒッチコック自身の精神イメージの成長を通しての戦後の現代映画と重複している。しかしながら、Marnieのような映画において、映画製作者としての彼の思考はまだ(Deleuzeが言ったような)「調和的な統合としての知識の理想、それはこの古典的表現形式を維持してきた」というような戦前の映画の概念が存在することは明らかだ。ヒッチコックの自分のカメラを所有したい、支配したいと言う欲求は、Marnieにおいて激しさの頂点を極めた。しかし、それはまた喪失と結びついた所有である。つまり、女優スターの喪失、ヒッチコックの後期の作品に対する大衆の関心の喪失、そしてもっともひっチックにダメージを与えたのが最後の結果をコントロールする確固とした感覚の喪失である。

 RedDeser(David Bordwellに反熱狂的なメロドラマと呼ばれた)において、アントニオニは、ヒッチコックのように、精神的に病んでいるヒロインのGuilianaを私たちに見せる。Marnieのように、色との経験はしばしば彼女に対する厄介なことになり、それらは彼女の精神の不安定さの象徴になる。またMarnieのように、Guilianaは触れるという感覚に強く引かれる。映画は部分的に、Guilianaの精神状態は車の事故で活性化されたが、彼女の問題が以前よりもずっと深くなったことも明らかである、ということを説明している。それらは正確には、映画が決して位置させようとはしなかった、少なくともMarnieが恩義を受けている伝統的なメロドラマにおいては、決して位置させようとしなかった何かである。しかしMarnieのように、映画は最後に不確定な可能性を提供している。それは、ヒロインが自分の精神的な試練を対処し、生き延びるようなものである。映画の最初の方に、Guilianaが通りに立っていて、新聞がどこからともなく彼女の上に降ってくる瞬間がある。新聞が地面に落ちそうになるとき、彼女が足で新聞を踏みつけて、私たちは新聞を踏みつけているMonica Vittiのハイヒールの奇妙な魅力を観察する。Rodieはこの流れを以下のように書いている。「しばらくの間、新聞が壁に沿って落ちながら、物語は止まる。その動きにおいて、動き自身の感覚、色や壁のテクスチャの効果、空気の感覚を生み出しながら。そして物語は戻ってくる。

似たような場面がMarnieにもある。彼女が自分をMarion Hollandと証明するものが入ったカバンを、バスの駅のロッカーの中へ入れた後だ。彼女はその鍵を熱い通気孔へと運び、中に落としてしまう。ハイヒールの先で鍵が消えるまで通気孔に上品に押し込む様子が、クローズアップで映されている。ここでは4つの場面がかわるがわる現れる。駅のフロアを横切るマーニー、鍵を持っている手袋をしたマーニーの手、彼女の視点から見た通気孔、そして落ちていく鍵だ。Red Desertでは、よそよそしくじっと見つめる場面に効果的なように、ナレーションが中止されるときがある。Marnieにもナレーション機能を果たす場面があるが、場面構成のなかでは、それは単なるナレーション機能とはいえない魅力をもっている。Marnieのなかのこれらの場面は、どちらも提供する物語の情報という点では古典的に経済的(?)だが、同時に細部(手袋をした手、鍵、ハイヒールを履いた足)への執着的な応答という点で、またはロッカーから通気孔までの短い距離のなかでマーニーの体が断片化されているという点ではoverdeterminedである。(Histoires du cinemaの最近の挿話の1つのなかで、ゴダードは話の文脈から離れてマーニーの靴と鍵の場面を引用して、それをスローにしてから止めている。そこには、この場面の隠れた抽象概念も現れている。)

これらのような場面で、ヒッチコックとその時代のヨーロッパの芸術映画は向き合うこととなった。しかし、ヒッチコックは遂にアントニオニがしなかったやり方で説明したにちがいない。新聞を巻き込むこの場面の抽象概念は、Red Desertでの話と形態の間、うわべとその下に潜在的にあるものの間のとらえどころのない関係を調べるという仕事におけるもっと大きなシステムの一部だ。アントニオニの中では、物話、動機、心理学は結局映画自体の空間や形態に飲み込まれてしまうものだった。ヒッチコックの映画はその可能性をほのめかしている。しかし彼の映画のほとんどはナレーションや説明に戻るようだ。この違いの理由は複雑で、ヒッチコックとアントニオニをそういう映画製作者にした歴史的、文化的な影響力のネットワークの結果である。ヒッチコックの場合、基本は伝統的な物語形式の映画、ハリウッド、そしてメロドラマの論理へのつながりであった。それはうわべが最終的に明かされなければならない世界を、足りないより有り余るように補強し強調するため、意味を説明し与える必要性を主張していた。しかしMarnieではこうして明らかになったことはあることはあるが、映画が提起した問題にたいして全く十分だとはもはや見えない。それはまるで私たち次第であったこの蝕知できる世界が、どんな物語調の説明も探しだせない魅力を獲得したかのようだ。

ダーグナットは、アントニオニとヒッチコックは「同じ山脈から起こった2つの川のようだ」と書いている。アントニオニは私たちを「経験の謎」へと導き、「間違った説明をあれこれと」させないようにする。それに対しヒッチコックは「私たちの意識をconformismで非現実の自己満足へ追いやるためだけに、悪夢を呼び起こす。」これはどちらも正しいが、ヒッチコックの晩年の映画の不適切さに向けられたある種の態度を表している。(監督を書いたダーグナットの本は、1960年代に引用が現れだしたが、1974年に出版されている。)彼の映画製作に対するこの不適切さは、実際にヒッチコック自身が感じていたものだ。Marnieを撮った2年後、彼はBlow-upを観た。これは作家ハワード・ファストに対する彼の反応である。「なんてことだ、ハワード!私はアントニオニのBlow-upを観たところだ。このイタリアの監督たちは、技術面で私より一世紀先をいっている。私は今まで何をしていたんだ。」ヒッチコックは、アントニオニや他の人の作品にある映像の新しい概念の魅力は技術の発展を知っていて、彼が自分の仕事に対する技術面のつながりをはっきり認めるにつれて、その魅力は間違いなく技術に魅了されたものだと感じている。彼は自分のために、この映画のいくらかの部分を欲しがっている。ただそれがファッショナブルだからだけではなく、彼にそうする資格があったからだ。しかし彼はずっと戦前の古典映画と戦後の現代映画の境目にいる映画製作者であり続けた。  

Marnieの中のあらゆるこの手法、何かをつかもうとする手は、美しくも獲得できない女優に魅了された男のしるしかもしれない。しかし、それらの手は何か別のものに伸びていると見てみてはどうか。その手は、戦後の芸術映画―ヒッチコックには到達できないが彼を惹きつけてやまない世界―にも向かっているかもしれない。

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作成:2006-10-26