ヒチコック

10/27テスト分

 アルフレッド=ヒッチコックの映画「Rope」は1929年に彼がロンドンの劇場で見た同じ名前の劇に基づいている。ヒッチコックもその劇の作者であるパトリック=ハミルトンも、二人とも暴力・いじめ、そしてハミルトンの場合は同性愛に特徴づけられた私立学校に通っていた。パトリック=ハミルトンは、その裕福な弁護士の息子で、その家族が1915年にロンドンへと引っ越した時、セントポールズスクールのための大学進学予備校である「コレットコート」に寮生として送られた。ここは名声があり、大変敬われている学校で、両親はそこではどのような生活が行われているのかということを決して考えなかった。彼の初期の大学生活は彼に特有のいじめを課すものであった。しかし、コレットコートの寮では新しい性的局面があった。二ジェル=ジョーンズの書いたヒッチコックの伝記によれば、消灯の後は、「集団マスタベーションの時間と化し、あるいは個別にあるいは互いに‘ヤル’ことが、日課、あるいは‘夜’の‘日課’となっていた」 そこの首領は、自分より若い人間を帆装されたシーツでできたカーテンの後ろのベッドに加えさせる年長者だった。いかなる抵抗も、脅迫といじめに遭遇していた。ハミルトンは自分が選んだ家族専属の「養成人」(子供の世話をするよう鍛えられた人)を通して両親が何が起こったのかを知ってから、学校をやめた。

 1918年、当時14歳だったが、ハミルトンはもうひとつの高い評判を持つ施設である、ウエストミンスタースクールに転校し、そこではもちろん同じ同性愛文化を見つけることができた。この時パトリックは彼自身より若い男の子と恋に落ちた。しかし道徳心による懸念に悩まされ、いかなる実際の性的接近も絶った。実際、同じ伝記作家によると、彼の性的願望の目的は性的嗜好とチョコレートバーとを交換することだと、ハミルトンは発見したが、それにもかかわらず彼は、自分が、他の少年たちにいじめられることから、自分の弟子を守ることを制限した。(ハミルトンが学校時代に感じていた良心の呵責等の一方で)ヒッチコックのほうは、このような良心の呵責を見せることはなかった。ハミルトンが、少年時代に受けたからかいのために一生の傷を負ったと感じていたのに対し、ヒッチコックは学校ではむしろいじめっ子であったし、その後も俳優をはじめあらゆる人々を、念入りで人の悪いいたずらで悩ませた。ヒッチコックはカトリックの小売商売の家族出身で、当然のように肉体的懲罰が行われていたイエズス会の学校に送られた。ヒッチコック自身ははっきりと革紐で引き起こされたまひを思い出していた。しかしながらヒッチコックは怖がられていたが、無邪気には程遠かった。同僚のロバートグールドはヒッチコックによってどのようにいじめられていたかを思い出した。腕は縛られ、ズボンは下ろされ、下着につけられた爆竹を爆発させられた。仕返しが怖くて、彼は誰にも話さなかった。

 ヒッチコック自身の、いたずら(よく一線を越えてひどいいじめになるが)に対する趣味と、同性愛に対する魅惑はともに人生を通して消えず、映画作家としての彼の作品に貴重な役割を果たした。一度以上、彼のいたずらは婦女誘拐と同様、束縛や他の監禁を使い、その両方とも「ロープ」と直接的な関係がある。つまりその映画は婦女誘拐や監禁といった行動を軸としており最初殺人の犠牲者は誘拐され、映画館に残されるが、その後彼はころされ、骨董の収納庫にきつく詰め込まれ、ロープで縛りあげられる。(それゆえに映画のタイトルがロープなのだ)しかしながら、これは全て単に多くぞっとするような冗談のためにシーンを置いている。つまり招待状はやってきて、いくらかの 珍しい本を見るようにと被害者の父に送られていて、それらを買う目をもちながら、彼が来ている間、まさに同じ収納庫に置かれた状態で夕食が出されていた。もちろんこの発想はもともとパトリック=ハミルトンのものだが、それはヒッチコック自身の幻想的な生活によくあっているものだった。それは覚えられているべきだが、儀式的な食事はまたヒッチコックの優先事項であり、彼はパリでよく客を食事を招待し、飛行機でロスに運んだものだった。

パトリック・ハミルトンの兄弟のブルースによると、「『Rope』の出発点は、アメリカのレオポルドローブの有名な事件にあると皆に知られている」そうだ。しかしパトリックは「Ropeを書いた後、人々が私にレオポルドの事件との類似性を教え始めるまで、この犯罪を思い出す事が出来なかった」と主張し、レオポルドの事件がRopeの出発点である事を否定した。彼は死ぬ間際、自分のファンに、Ropeはレオポルドローブの殺人事件の二年前の1922年の始めに考え出した、と話した。このレオポルドの事件とは、二人の若く、富裕で才能に溢れた二人の同性愛者が(恐らく完全犯罪を実行するスリルのため)ローブの若い従兄弟を殺した事件である。実際は、彼等は完璧にしくじり、すぐに捕まった。ハミルトン自身はニーチェの、特に1927年に読んだ『ツァラトゥストラはかく語りき』に大きな影響を受けている事を認めている。彼は超人になる空想に耽り、ニーチェの警告を他者に警告した。その警告とは「超人の風に唾を吐かないようにしなさい」というものである。ブルースは自分がニーチェに取り憑かれたと言っていた。

ブルース・ハミルトンはレオポルドとニーチェに加えて、二つの他の原点に言及した。パトリックの思考には、すさまじい力を持った無気力で不自然な、ぱっと見、無駄なキャラクターが現れるというドラマティックな発展性があった。最後に、極めて重要な瞬間に長居しすぎるお客さんのシチュエーションがあった(彼はこれを「家に帰ろうとしない男」とした)几帳面さにはヒッチコックも常に取り憑かれていた。彼は電車とバスの時刻表を携帯して、この妄念はRopeにも現れている。しかし私はまだ、ハミルトンの学校での同性愛といじめの経験がこの映画の中心になっていると考えたい。

ハミルトンの演劇では、殺人者も被害者もオックスフォードの学部学生である。このほのめかしはきっと、(エブリン・ワウフの小説に不滅な社会的セットである)ハロルド・アクトンやオズバート・シットウィルの周りに集まってきた唯美主義者と学部学生のセットである。しかし被害者であるロナルド・ケントレイは唯美主義者では無く、運動選手だった。お客さんの一人であるラグランは「ロナルド・ケントレイ、あの男はそんなに運動に長けてないんじゃないか?」と尋ねた。ニーチェ主義者で殺人者のブランドンは「その通り。君は彼を知らない?」と答えた。ラグランは「あぁ、俺は彼にあったことがないよ、でも彼はハードル種目で勝ってるよね?」と答えた。ここで生じているのは、唯美主義者と運動選手の間や、「芸術家ぶっている」事と「元気な」事の間の反発である。パトリック・ハミルトンは大学に行った事が無かったが、学校を離れた後、それ以上の教育無しで、最初は詩人に、それから演劇や小説の作家になろうと決心した。しかし、彼がオックスフォードの魅力に満ちた世界の経験を考案した事は道理に適っている。

アーサー・ローレンツが書いた映画では、ヒューム・クロニンのパトリック・ハミルトンの演劇の順応を基礎に、二人の殺人者は寄宿学校での時からの友人としてキャラ付けされている。そしてルパート・キャベルは知性のある指導教官であり、二人の若い男の前寄宿学校舎監となっている。彼は殺人者で、被害者の父親に「学校で、あなたに求められたかも知れない種類の損害ですよ」と無味乾燥なジョークを言った。このフレーズの元は、ラグランがブランドンの胸元を急にぐいっと掴もうとした時、ブランドンが彼の手首を捻り、ラグランが痛みに金切り声を出した、というオリジナルの演劇から持ってきた言葉だ。ラグランは抵抗し、ブランドンに咎めるように言った、「学校で君はよく俺にこれをしたよな…」

この私立学校の拷問へのかぎとなる言及はたくさんの脚色を重ねるうちに消されていった。ヒッチコックが初めてハミルトンに電話したのは1937年にもさかのぼるが、それはその劇の映画版を提案するためだった。しかし、彼や演出家であるシドニー・バーンスタインがそれを実際に企画化し始めたのは、1944年になってからだった。3年後、ハミルトンは、バーンスタインがヒッチコックに送った台本をもとにした映画化に取り組むため、賃金支払い係とエルストリー・スタジオまでのお抱え運転手となった(金銭負担はバーンスタイン)。ヒッチコックは、たぶんアルマ・レビルと話し合ってから、ハミルトンが書いた脚本を古い友達のヒューム・クロニンに渡して、散文的な感じに直すよう頼んだ(こうして詳細な描写に行き着いたと私は思っている)。アルマはThe Paradine Caseでこれを行い、ヒュームはUnder Capricornで同じことをやっている(この2つはヒッチコックがRopeのすぐ前とすぐ後に作った映画。)そして、クロニンのやり方に基づきつつも最後の会話をアメリカ風に書くために、脚本家のアーサー・ローレンツが投入された。ハミルトンはこれに憤慨した。彼は裏切られたと感じ、その映画を激しく嫌った。そしてロンドンでの映画の打ち上げパーティーで泥酔したうえ、それからずっとヒッチコックを呪った。それはまるで学校のいじめっこヒッチコックが、ハミルトンが映画の仕事から何も喜びを得られないように仕組む、という拷問の仕方をみつけたかのようだ。そして、ハミルトンは巧妙すぎる悪ふざけの犠牲者であるかのようだ。

Ropeはカメラの様々な動きをいろいろ混ぜることによって作られ、つながった一場面のためにこれまでのようなカットを使ったりはしなかった。つなぎ目は、カメラが平凡なコマを大写ししたところで終わった時々に、うまく隠された。例として登場人物のジャケットの背中を挙げると、大写しにされ次のテイクに向けて映像が次第に消えていき、また同じような平凡なコマで映像が始まる。ヒッチコックが1テイク10分として9テイクしか撮らないと主張したにもかかわらず、実際にはもっとあって、1つの長さが短かった。実際のところ、9分以上続いたのはそのうち3つだけだった。それでもその映画は技術的に離れ業だったし、ヒッチコックが通常の編集なしで映画をうまく撮ることに異常なほどスリルを感じたのは明らかだった。映画が公開されたとき、ヒッチコックはRopeを製作するにあたっての興奮を、Popular Photographyの記者であるファビウス・フリードマンにこう語っている。「ずっと前、私は実際に2時間で起こる作り話を2時間の映画にしたいと言った。空白の時間がない映画を撮りたかった。カメラが一度も止まらない映画をね。Ropeでその願いがかなった。あれは私がこれまで監督したどの映画とも違う。確かに、移動するカメラでばらばらに一続きの場面を撮ることは、Spellbound,Notorious, The Paradine Caseなどの中で実験してきた。でもRopeが出てくるまで、『カメラは、それぞれの場面で11ページ分の会話をし尽くし、でっかい蒸気シャベルのように終始活発な丸々1リールを一度に撮ることができる』という自分の考えを表すことができなかった。」 ヒッチコックはカメラのために特別なクレーンを作らせ、健康な男を6人雇い、4人を腕木に、そして2人をセットの上高くに設置されたマイクに配置した。カメラのレンズは特別に改造され、視野が広い映像と大写しの映像を、同じ動きの中で撮れるようになった。カメラの動きやタイミングは、俳優の動きやタイミングに合わせて設定された。またアパートの壁は、潤滑油を塗ったローラーの上を滑り去っていき、カメラが通り過ぎた後でくるりと戻ってくるように組み立てられた。それは神業だった…動くカメラ、家具、俳優のための複雑なバレエのようで、あらかじめ全てが入念に組み立てられていた。同時に、ヒッチコックの目標は全てのカメラの動きを全く自然に見えるようにすることだった。彼の言葉によると、「観客は絶対にそのことに気づいてはいけない。もし一人でもカメラがすごいことをやってると気づけば、結末そのものが失敗になるだろう。実際、観てる人の何人かは、おそらく映画通だが、きっとカメラに気づくだろう。特に何回もその映画を観たあとはね。自分の経験からいって、カメラの動きを見るほうが俳優の動作を見るよりも、やがて強く心を捉えるようになる。Ropeはだんだん全く別のタイプの映画へと変わる。すぐれたスリル映画ではなく、経験的な映画になっていく。ハリウッド映画っていうより、どっちかっていえばマイケル・スノウのカメラ中心のWavelengthやBack and Forthに似てるね。」

ヒッチコックが実験映画(作者の考え方に基づいて、技術的な実験や思想的な実験など、実験的に制作された映画の総称)に初めて興味をもったのは、ロンドンの映画研究会に足しげく通っていた時期のことである。1920年代の間、映画研究会に通ったことで、彼はたくさんの親友と協力者を得た。(以下具体例)

二人の共同設立者(?)のうちの一人であるアイヴァ・モンタギュは、ヒッチコックの初期の無声映画を三作品編集している。すなわち、「下宿人(The Lodger)1926」、「下り坂(Downhill)1927」、「ふしだらな女(Easy Virtue)1927」の三作品だ。さらに彼は、初版の「知りすぎた男(The man who knew too much)1934」、「三十九夜(The 39 Steps)1935」 「シークレット・エージェント(The Secret Agent)1996」、そして「サボタージュ(Sabotage)1936」といった作品の副プロデューサーでもあった。

加えてモンタギュは、エイゼンシュテインのよき友人であった。ヒッチコックはエイゼンシュテインのモンタージュ理論に精通しており、そのモンタージュ理論の影響は、例えばあの悪名高い「サイコ」における、シャワー室での殺人シーンでのモンタージュシーン(それ自体がいわば実験映画のミニチュアのようなものであり、ソール・バスが演出した)にみてとることができる。

アンガス・マクフェイルは、数多くのヒッチコック映画が撮影されたエルストリー・スタジオで脚本を書き、のちに「白い恐怖(Spellbound)」や、アメリカ版の「知りすぎた男」の製作に携わった。 ヒッチコックの妻であるアルマ・レヴィルは、「The Constant Nymph(永遠の処女?)」をエイドリアン・ブラネルのために執筆した。エイドリアン・ブラネルはモンタギュのケンブリッジ大学時代からの友人であり、モンタギュを初めて映画の世界で雇った人物である。

ウォルター・マイクロフトはブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズにヒッチコックが所属していた頃の中心的なシナリオライターで、ヒッチコックは彼のために10の連作を製作した。そのうちのひとつである「シャンパーニュ(Champagne)1928」は、マイクロフトの原案に基づいている。

このように、映画研究会はヒッチコックにとって出発点であったのだ。

ブラネルとマイクロフトは、後にグラナダ・テレビの社長になった映画配給業者および劇場の所有者であるシドニー・バーステインがそうであったように、共に(ロンドンの映画)研究会のCouncilの一員であった。また、バーステインはデヴィッド・セルズニックとの関係においてヒッチコックの助言者であり、そして『ロープ(Rope)』『山羊座のもとに(Under Capricorn)』を製作したトランスアトランティックピクチャーでのヒッチコックのパートナーでもあった。研究会のメンバーの中にはモダンムーブメントに関係するアーティストや知識人が多くいた。その中には批評家であるロジャー・フライや、パトロンであるジョン・メイナード・ケインズ、彫刻家であるフランク・ドブソン、画家であるオーガスタス・ジョン、デザイナーであり、モンタギュの提案で著名な題の『下宿人(The Lodger)』を製作したE.Mcknight Kaufferがいたことが知られている。映画研究会は数々の重要で実験的な映画作品を出品し、それらの多くはヒッチコックが見たに違いないものや、彼が彼の人生の晩年をしばしばほのめかしたものである。1960年、彼はダダ(*)や超現実主義者の映画について、パリの雑誌『アート、レターズ、スペクタルズ』のインタビューで詳しく語った。その雑誌はブニュエルとダリの『アンダルシアの犬(Un chien andalou)』(1928)や、ルネ・クレールの『幕間(Rene Claire's Entr'Acte)』(1924)、エプスタインの『アッシャア家の崩壊(The Fall of the House of Usher)』(1928)、コクトー『詩人の血(The Blood of a Poet』(1931)などについて書いている。(映画研究会はデュシャンの『アネミック・シネマ(Anemic Cinema』(1926)やレジェの『バレエ・メカニック(Ballet Mecanique)』(1924)も出品している。) 営利目的の映画では、彼はチャップリンの『パリの女(Woman Of Paris)』 (1923) 、そして特にムルナウの、たった一つのintertitle (←辞書に載ってねぇ) も無しに公開された無声映画『最後の人(The Last Laugh)』 (1924) に多大な影響を受けた。後に、彼はほとんど主人公の主観的視点から撮影され、そのため観客は主人公が鏡を見た時しか彼を見ることができない映画である、ロバート・モンゴメリの『湖中の女(Lady in the Lake)』に強い関心を示した。ヒッチコックはバーグマンとブニュエルによる映画、特に『トリスターナ(Tristana)』(1970)についても好意的にコメントした。

(*)ダダ…ダダorダダイズム 1910年代に興った伝統的な道徳・美的価値を否定し、偶然性・不条理性を追求した芸術運動。

ロンドン映画協会の計画のひとつは、レン・ライの経験主義的な映画である「Tusalava」の支援行為だった。後に、ヒッチコックは、自作の作品で走り去る列車が爆破されたのあとの。使い残しの最後のシーンを甦らせることで、ライが自分と作れたらと言っている。

しかし、ヒッチコックは別の芸術家であるダリと協同して、「spellbound」を作った。ヒッチコックは、音でも実験をした。ヒッチコックに、経験的な最も強い影響を与えたのは、ドイツの静的な映画である。

 ヒッチコックは、自分を商業的な監督と見なすか、欲求不満な監督と見なすか、その間で揺れ動いていた。1938年に、彼はこう不満を言っている。「普遍的なアピール力は、芸術としての動く写真においては、最も妨害的な力である。創作者のアピールしようとする努力において、ハッピーエンドのありきたりな単純な物語に成り下がる。想像的になった瞬間に、観客を分離し始める。映画を特殊化するまで、何も出来ないのだ。」 ヒッチコックはこう結論付けている。「映画に対する商業的な圧力は、芸術としての映画を破壊するのに役立つ」ヒッチコックは「大衆のためのショーマン」としての自分と、「私的な唯美主義」としての自分の間に葛藤を抱いていた。

 Ropeはこの文脈において見られるべきである。ヒッチコックは、Ropeを「ハリウッドに中で最も革命的な技術である」と評した人を引用するのを誇りに思っていた。まるで、ヒッチコックは、彼を自分の偉大なマスターだと感じていたようである。

 Ropeにおいて、ヒッチコックは「The last laugh」でマーナウがしたのと同じくらい王権的にカメラを取り入れた。それは、完璧な流動性の絵画の物語になるだけでなく、カメラが様々な視点から出来事の過程を追っていけるような忍耐が必要である。

 しかし、Ropeにおいて、観客とドラマの間には距離が存在する。心理的に、それはヒッチコックの「裏窓」とは反対のベクトルを持ったものである。

 ヒッチコックの真の目的は、多くの技術的困難を乗り越え、一度もなされなかったことを達成することだった。しかし、奇妙なことに、ヒッチコック自信の熱意は主に円形パノラマに費やされていた。

飛ぶ家具とグリースを塗られたローラーの上に滑る壁について説明した後に、彼に単一の、そして、変わりのないレンズ、写真のために作成された特殊カメラ台車、あらゆる動きの入念な企み、および6個のオーバーヘッドのマイクで殺人犠牲者の帽子の内部を撃つために広いショットから入って来た特殊カメラの変更は6人の音の男性で操作した。ヒッチコックが彼のフィナーレとして12000平方フィートの円形パノラマを選んだ。それを「すべての装置では、最も不思議である」、「およそ35マイルのNewYork地平線の正確なミニチュアのrepuroductionは150個の変圧器を必要とする8000の白熱電球と200のネオンサインで火が付きました」と記述して。 ヒッチコックは、「光の器官」としてこの驚くべき工夫を命名して、どのように「写真が最初のリールの太陽の入りから最終的な大団円における、真っ暗闇の時間まで行く時までには、光の器官の男性は光の中で夜行性のマンハッタン交響曲を演奏したか」を言う。

オルガン奏者として、映画を彼のキーボードで演奏する「軽い(「光の」かも)オルガンの男」はヒッチコックの、ディレクターとしての彼自身の理想のイメージを描写しており、フーガを作曲して弾いていたかもしれない、と私は信じる。より正確な類似は*Scriabinによるもので、彼の軽いオルガンを用いた試みは、**Eisensteinに相当な影響を与えた。Scriabinの音楽は、Eisensteinが言うことには、「生理的な性質」を持ち、彼も自身の映画においてそれを見習っている。いくつかの重要な相違点にもかかわらずEisensteinはモンタージュを用いた彼の試みのなかで、ヒッチコックに前もって示したのだ。つまり、1929年のThe [doomed]General Lineを製作する際に、彼曰く「メトリック」モンタージュとは反対の「リズミカルな」モンタージュを使ったのだ。これによって彼は「ショットにおける動作」のリズムと、光のリズミカルな変化―それは音楽の調性の規模に伴い変化するのだが―との両方を表現した。「光の調性」の正式な型のリズム、つまり光のクレッシェンドを達成するために、ヒッチコック(映画)のカメラマンはじっとしたまま1時間と45分間、5分おきに日没の写真を撮った。「Wavelength」において***Michael Snowが達成した効果とは違う、連続的な効果を得るためである。EisensteinやSnowのように、ヒッチコックは光を音楽的観点から見た。こうして彼はネオンライトを描写したのだ。このネオンライトは「シンフォニーのクライマックスでも、オーケストラのクレッシェンドが増加していくように」窓を通り抜けて輝いている「充電」サインによってつくられたものだ。(後に1958年の「vertigo」のなかで見習われている)

ヒッチコックの光の音楽的観点は、我々に最も初期のSurvageやEggelingやLyeの試みを思い起こさせ、共感の効果を与えるための音楽的なリズムとトーンとに関連し得る視覚的イメージの発見を企てる。 この意味で、ロープ****は、ドイツ人の表現やあるいはkammerspiel(室内劇)映画の伝統に比べてより根本的な実験的やり方へと落ちていくもののようだ。映画製作者としてのヒッチコックの計画は、自身のケーキを持ちこみ食べること、つまり、多くの人々の人気を得ることに成功する一方で、同時に、注意深く誤魔化された方法による芸術的表現を達成することであったと私は確信している。そして、Eisensteinが書いたように、注意深く誤魔化されているために、その方法は、大衆に「生理的に」のみ知覚されただろう。同時に、ヒッチコック自身は、平凡な長編映画の型のなかで仕事をしつつ、世間一般の視線から自分の達成したものを注意深く隠しながら、軽オルガンの大音楽家としての、かつ前衛的な映画の気付かれざる悪事からくる、秘かな喜びを楽しんでいたかもしれない。罪人のように、ヒッチコックは自分の計画に対する手がかりをほとんど残さず、美的孤独のなかでそれを楽しむことを好んだ。

*   スクリアビン(1872-1915)ロシアの作曲家.
** エイゼンシュタイン(1898-1948)ロシアの映画監督.
***  演出家だと思われます。
**** ごうしゅんの担当部分を参照してください(笑

*要約
「ヒッチコックは、『ロープ』で始めて試みた、カメラを止めずにシーンを?いでいくという手法を大きな成功と考えていた」
「ヒッチコックは、彼の映画において、登場人物になんらかの拘束を課す設定をする手法を多く用いたが、それと同時に、その拘束から逃れられるちょっとした安心感を加えることを忘れなかった。それは、拘束と移動の両方を表現できる列車への彼の愛好が象徴的に示していることである」

 ヒッチコックは、『ロープ』全体を構成するカメラワーク*が大得意だった。彼は、軍隊の活動のごとく〔整然と〕執り行われた撮影の様子を細部までさも嬉しそうに説明するのだった。撮影の間彼は、役者にしろ、大小の道具にしろ、あらゆる動きを黒板に書き出した上で、キューを出した。こうした新たな方法論の結果、「動きが連続した流れとして表現されると、見るものの目は絶えず釘付けにされる。そして、カメラの切り替えを全くのゼロにしたことが、映像の流れをより滑らかでよりスピード感のあるものにし、その結果、観客は酔いしれてしまう」と、ヒッチコックは説明する。しかし、同時に彼が楽しさを隠しきれない様子で付け加えることには、この映画の中心的な存在であるチェストは、カメラの邪魔にならないように何度も何度も、屈強な道具係の男性が4人で運ばなければならなかったという。そして、〔ヒッチコックによれば、〕「その間ずっと、殺害された若者を演じる俳優は、チェストに押し込められたままだった。『ロープ』ではたいていのシーンは時間の切れ目もカメラの切れ目も全くなかったため、彼は10分まるまる、フィルムにして実に950メートル分、チェストの中にいたことになる。第3テイクの後、彼は、なんと言おうか、ちょっともう嫌になってきてしまったようだ。『なんでもいいからこのテイクで決めてくれることを祈るよ』彼は、心の底から、という感じでそう言うのだった。『あの10分間は、まるで10時間だ』」。いうまでもないことだが、チェストは縄で縛められていた。  ここで、ヒッチコックは、若き俳優の身の上に押し付けられた、経過する時間のこの上ない減速と、閉所恐怖症的な束縛をふたつながら指摘した。今更いうほどのことでもないが、ヒッチコックは、自分が作り上げる人物になんらかの束縛を課す‘才能’に恵まれていた。『三十九夜』での手錠は、その、いまや古典的な例といえる。動きを制約することは、不可避的に閉所恐怖症を引き起こす(『救命艇』(1944)での、一緒くたに押し込められた生き残りの人々や、『裏窓』での、車椅子に縛り付けられ自分の宿舎の部屋から出ることすらできない写真家を思い出されたい)。『裏窓』の閉所恐怖症を引き起こすような状況で、ジェームズ=ステュワート演じるジェフェリー*は、しかたなしに窓の外へとレンズを向けることで退屈と監禁からの救いを見出す。それはちょうど、ヒッチコックが、『ロープ』の登場人物の閉所恐怖症的な状況を、カメラのレンズを流れるように連続してまわし、かつ、絶えず変化し続ける円形パノラマから眺めることで、いくらか救ったことと通じるものがある。ヒッチコックが目指したのはどちらの映画でも、ひとつの閉じられた場所に観客を置くことであった。しかし一方で、〔『ロープ』の〕連続的なカメラワークであろうと、〔『サイコ』の〕登場人物の視点からのショット*であろうと、楽に動ける安心感というものを効果的に使うことでもあった。『サイコ』では、観客は、二重に閉所恐怖的で定位的な場のうちに置かれることになる。最初は、通りから入ったところにあるモーテルで、そして次に、次々と視点の変わる、殺人のモンタージュ*に突入する直前のシャワーユニットである。ジャネット=レイ*が著書の『サイコ、名作スリラーのシーンの裏には』で指摘するように、〔前述のシーンにおいて〕ソール=バス*のストーリーボードには78もの異なる視点のショットがある。そしてそれは、レイの表現を借りれば、「死者の目のクロースショット*から始まり、だんだんと引いていって、次々に浴槽、シャワー、バスルーム全体を、すごく高い視点になるまで(鳥の目から見るぐらい、あるいは剥製の鳥の目からかも?)」というものもある。この内から外への視点の動きは通常とは逆である。レイは、この「逆向き」の視点の動きが鳥瞰の視点で終わることを続けて指摘した。『鳥』での気の遠くなるほど難しい視点からの撮影(訳注:おそらく鳥瞰的なショットが多いのであろう)を前もって試してみたようでもあり、ノーマン*の恐ろしく閉所恐怖症的な仕事部屋を見下ろす剥製の鳥の視線の余韻が響いてくるようでもある。  私自身は幸運にも、『ロープ』に加え『見知らぬ乗客』(1951)でも主演したファーリー=グレインジャーに会い、なぜヒッチコックがあれほど列車に興味を示したのか訊くことができた。「閉塞と移動の混合ですよ」と彼は答えた。列車の乗客は、閉じ込められていると同時に絶えず視点を変えている。ここでもう1度思い出しておきたいのは、〔彼の映画において〕窓から外をのぞくことは重要な意味をもつ、ということだ。周知のように、ヒッチコックは列車に魅せられていた。若いときには、路線や時刻表を覚えるのに労を惜しまず、イギリスの鉄道の時刻表に、「狂信」といえるほどにまで夢中になり、ついにはそれを暗記してしまった。彼の伝記によれば、8歳になるまでにロンドン中の電車はすべて乗りつくし、「壁に大きな図を‘建設’して、その日その日のイギリス中の実に全ての乗り物の位置を示した」という。同じ情熱が、『ロープ』でのヒッチコック自身が決めた、ドリー*の動きの正確無比のタイミングに、複雑な‘旅程’にもかかわらず‘予定時刻’に寸分たがわず到着するそのタイミングに、はっきりと表れている。列車は、それ自体が運転中はどこにも出口のない罠のような閉じ込められた空間であるだけでなく、小さな、もっと少人数での‘罠’の連なりでもある。すなわち、コンパートメントや寝台や、究極的には化粧室などである。ヒッチコックの名高い作品には、目立って列車が登場する。『第17番』(1932)然り、『三十九夜』然り、『間諜最後の日』然り、『バルカン超特急』(1938)然り、『断崖』(1941)然り、『逃走迷路』(1942)然り、『北北西に進路をとれ』(1959)もまた然りである。こうした映画のうちの多くで、閉所恐怖症的な空間としての列車、すなわち罠あるいは罠の可能性のあるものとしての列車と、逃走のための手段としての列車という緊張関係が存在する。フロイトのことばを借りれば、列車とは、同時に「快」「不快」両方の対象であるのだ。

註 *この章の初めに書かれているように、『ロープ』のカメラワークは、通常いくつものカットを組み合わせて作られる映画を、連続した10分ほどのショットを切れ目なく繋いだ、斬新なものであった。 *ジェフェリー L. B. Jefferyとは、映画『裏窓』の主人公の写真家である。 *登場人物の視点からのショット point-of-view shotとは、客観的に全体を視野に収めるのではなく、誰かの視点から主観的に見たように撮るショットである。『サイコ』のなかで、シャワーユニットでの殺人がpoint-of-view shotのモンタージュで描かれていたことを思い出されたい。 *モンタージュ montageとは、映画やテレビにおいて、さまざまな視点・角度からの映像を次々と繋ぎ合わせること、またはその繋ぎ合わせたものをいう。 *ジャネット=レイ Janet Leighは、映画『サイコ』でMarionを演じた女優。 *ソール=バス Saul Bassは、『サイコ』等多くのヒッチコックの映画で活躍したグラフィックデザイナー。 *クロースショット close-upとは、対象に、それが何か分からないほど大接近したショットのこと。遠くから近づいていく動きを伴うズームアップショットとは区別される。 *ノーマン Norman Batesは、嵐の夜にMarionが逃げ込んだモーテルの経営者で、剥製、特に鳥の剥製をつくるのが趣味である。 *ドリー camera dollyとは、カメラつきのトロッコのことで、映画の撮影器具の一つである。

ミカエル・バリントはその著書Thrills and Regressionsで「病理学で言えば、オクノフィリア(抑えきれない執着)は自己の削除や、心配しがちな傾向に、特に広場恐怖という形で関係している。一方フィロバティズム(抑えきれないスリルを求める気持ち)は、無関心や変質的な態度、そして時に閉所恐怖症を招くかもしれない」と言っている。 バリントの著書は「遊園地とスリル」と名付けられた章で始まり、そこには人がジェットコースターなどから得る特殊な喜びについて論じている。バリントが指摘するように、スリルは一般的に、めまいや高速、なじみのない、もしくは完全に新しい形の満足感と関係があり、その全てがヒッチコックの映画にしばしば見られる。 そのような状況下で全てのスリルの要素たる、恐怖や喜びそして危険に立ち向かう自信の混合を楽しむ。ヒッチコックの映画は動きを伴う監禁という典型的な組み合わせという点でジェットコースターに乗ることに似ている。

ヒッチコックにとって鍵となる要素はスリルとサスペンスのつながりにあった。それは彼の言うところの「時間要因」、つまり差し迫っている災害に見舞われる瞬間まで主人公に残された、徐々に減っていく時間のことである。 ヒッチコックによれば、サスペンスは観衆に示されている恐怖の存在に依存し、その点で恐怖の特性が未知であるミステリーなどとは逆である。 ヒッチコックは幼少時の体験故に、警察への恐怖にさいなまれていた。彼が子供の頃、不正行為への警告として一時的に監禁室に閉じこめられたことがあるのだ。「ロープ」では映画の始まりで被害者は監禁された状態にある。そして最後に監禁されているのは悪人たちである。 一方、フロイトは、特に列車との関係において、自身が閉所恐怖症の一つの形として見ていた旅行に対する不安にさいなまれた。

「ロープ」にはヒッチコックのお気に入りの二つの文学を持ってきている。ド・クインシーのエッセイ「芸術としての殺人について」これは犯罪の鑑識眼の基盤となっている。そして、エドガーアランポーの「グロテスクとアラベスクなものの物語」、特に「穴(地獄?)と振り子」である。これは監禁の恐怖を鮮明に描いている。「ロープ」では夕食に呼ばれた客人の視点から見るとミステリーによって、殺人者の視点から見るとサスペンスによってドラマッチックな構成が作られている。 ヒッチコックは、パトリックハミルトンと違い、絞め殺すシーンを見せる。これはハミルトンを最もいらいらさせる変化の一つなのだが、ヒッチコックの観点から言えば、これはミステリーを避け、サスペンスを強めるために必要なのだ。この点から言えば、そこには警察が来て、殺人者が拘束されるまさにその最後の瞬間まで連続したカメラの動きがある。私が主張したいのは、この絶え間ない動きは目撃者がまるで、絶えず道の上を動くと同時に、閉じられた空間である電車の中にいるように作られている。このようにして、ある種の閉所恐怖的な旅の不安を作り出しているのである。違うレベルでは、ハミルトンとヒッチコックが学生時代を過ごした寮や地下のボイラー室のような閉鎖空間がある。

外側の世界としての窓から眺める円形パノラマは、殺人者たちが考えるところの開かれた空間、「好意的な空間」であり、そこでは彼らはあらゆる危険から解放されて旅ができる。一方で、最後に報いがやって来て、彼らを置き去りにし、裏切り、喜んで近づき、助けを求めた親に捨てられるのも外側の世界でのことなのだ。

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作成:2006-10-26